千葉県猫実市、他力本願寺。
「ヴェルダンディ!」
森里螢一は、喜びを隠そうともせず、部屋の中に駆け込んできた。お茶を入れようとしていたヴェルダンディは、その様子に目をぱちくりさせながら螢一を見た。
「どうなさったんですか、螢一さん」
いつも通りの涼やかな声でいう。そんな彼女に螢一はもどかしげに手にした大きな紙を差し出した。
「やっとでたんだ! 国土省発行、新版日本全図!」
「あ」
それを聞いて、ヴェルダンディもなぜ螢一がこんなに大喜びしているのかを理解した。
話は4月にさかのぼる。あの時空融合に、ここ千葉県猫実市も巻き込まれていた。
「どうなってるんだ。これは……」
「ものすごい時間と空間のねじれ……このままでは、間違いなく世界が崩壊します」
「ええっ!」
読者は皆知っていると思うが、ヴェルダンディは人間ではない。ふとした偶然で現世に降臨した、れっきとした女神様である。ちなみに今ここには彼女の姉や妹や友人やら、計4人の女神様が居候している。
「螢一」
驚いている彼の背後でふすまが開き、そこからしっとりと大人びた女性の声がした。
「言っとくけどこの異変、たとえヴェルダンディが封印を解いてもどうにもできないよ」
「ユグドラシルとのリンクも切れてます」
やや幼い声がそれに続き、
「はっきり言って自分たちが生き延びるだけで精一杯ですわね。あたしたちがこういうのも変ですけど、まさに苦しいときの神頼みとしかいえませんわ」
やや険の強い、しかししっかりした声が締めくくった。
「みんな……」
ウルド、スクルド、ペイオース。
今ではかけがえのない『家族』である。
「どうすればいい?」
そう聞く螢一に、ウルドはゆっくりと言った。
「何も」
「何も?」
心配そうに聞く螢一。ウルドはスクルドたちと目を合わせると、再び語り出した。
「はっきり言ってこの異変はあたしたちの手に余る。規模がでかすぎるんだ。これは全地球規模の災厄だ。どうにかなるもんじゃないよ。ただね」
「ただ?」
「信じるんだね、『絆』つてやつを。そうすりゃ、何があっても離ればなれにはならないよ」
そして巻き起こる時空融合。
「いったい、何が……」
「信じられません。時空が、裂ける……」
「覚悟を決めな! 死にはしないだろうけど、二度と実家には帰れないかもよ!」
「それって、どういう……」
螢一の疑問に、スクルドが答えた。
「時空間がバラバラになりかかってるの。はっきり言って、どんな異世界にとばされるのか、見当もつかないのよ!」
「大規模な時空転移現象……もしユグドラシルと別次元にとばされたら、さしもの私たちも年貢の納め時ね」
ペイオースの何気ない言葉に、螢一はぎょっとした。
「それって……消えるってことかい?」
「何も手を打たなければ、そうなりますわ。私たちがここに存在するには、神力を受け続けなければなりませんから。でも、まあ、手はありますわ。むしろあなたにとってはその方がいいかも」
「……どういうこと?」
それに答えたのはヴェルダンディーだった。
「最後の手段……残った力を使って、私たちの姿と記憶をこの三次元に固定化すること……平たく言えば、人間になるってことです。力も使えなくなってしまいますし、能力も大幅に減退してしまいますけど、死にはしません」
一瞬、螢一は答えに詰まった。だがすぐに、力強く、こういった。
「どっちでも同じだよ。女神でも、人間でも。僕はみんなが一緒にいてくれる方がうれしいさ」
「よく言った、螢一!」
ウルドが螢一の背中を思いっきり叩く。
「さあ、何にせよ、力の及ぶ限りは、誰一人死なせないわよ!」
そして猫実市は、大学を含む市街地がほぼそっくりそのままこの時空に融合した。
「……こ、これは予想外だったわ」
融合終了後、どんな世界にとばされたのかと思いきや、それほど変化のない日本だったことに、みんなはほっとした。
もちろん、とんでもない勘違いであったが。
心配された神力だったが、幸いリンクは完全に切断されることはなかった。しかし……
「ポイントがずれてる?」
「はい。力そのものはまだ存在しているんですけど、送られてくるルートがこの時空融合の影響で変わってしまっているんです」
今女神様たちの手首には、以前にも使った月の石のブレスレットがはまっている。以前ほど深刻ではないが、今の彼女たちは、ブレスレットを媒介にして何とか神力を受け取っている状態である。
「力そのものは存在しているのですから、今のこの地における力の集積点に赴いて、そこで一度波長を合わせれば、何の問題もないのですが」
「どこだかわからないの? ダウジングとかで探せないのかな」
螢一の問いかけに、ヴェルダンディーは下を向いてもじもじしながら言った。
「探すのは簡単なのですが……道がわかりません。日本の町並みそのものが書き変わっていますから」
「あ」
螢一は……こけた。
しかし融合から半年、ついに日本地図が発売された。
街ごと転移したせいで、勤務先の店も残っており、技術職だったこともあって、生活にはそれほど困らなかったが、その分世間はいろいろ騒がしかった。
怪獣のたぐいがわんさか襲ってきたり、遙かに文明の進んだ行商人が大学祭で出店を出していたり(スクルドが対抗意識を燃やしまくっていた)と、いろいろなことがあった。が、エネルギー不足のため、女神様たちは何一つできることがなかった。できることもなかったが。
しかし、こうして地図が出版された今、力を取り戻すのはすぐである。ヴェルダンディーは別段不自由していなかったが、ウルドやスクルドの欲求不満は、かなりのレベルでたまっていた。
「さ、ヴェルダンディ、早く早く」
「お姉さま、お願いします」
ダウジングの準備を始めるヴェルダンディーを、ウルドとスクルドがせかす。
そして数分の後。
「ここ……ですね。今の神力の要は」
彼女の指し示したのは、中部地方の山であった。本格的な登山装備が必要になりそうな秘境である。
「……妙神山、ね。行ってみましょう」
こうして螢一+女神様Sは、登山の準備にいそしむのであった。