作者:アイングラッド
鈴原桃児は妹の桃子とみさきを居間でゆっくりさせ、自分は玄関先で親が帰ってくるのを見張っていた。
父親か祖父が顔を出したら速攻で疎開を行う為である。
その間、1時間置きに桃子には父親と祖父の職場へと電話で連絡を取る様に指示し、ガスの元栓、無駄な電源のスイッチオフ、戸締まりの準備も怠らせなかった。
そうして今か今かと待ちわびていたのだが、それでも姿どころか連絡すら取れぬ始末である。
彼としては様々な『しなくちゃならない事』が絡み合い、八方塞がりに近い状態であった。
何しろ彼はまだ中学生なのだ。
未成年の被保護者であり、親の指示に従って行動する事を期待される立場にあった。
だが、それとは別にこの家族の中の一等若い世代の代表として責任を持って妹たち二人の安全を守る『お兄ちゃん』としての立場もあり、それが「今はまだ、親が来てから行動しなくちゃならない」という行動理由と「この危険な場所に大事な妹たちを保護する為には今すぐにでも行動しなければならない」という行動原理としてぶつかり合っていた。
よって、今すぐにでも走り出して避難をしたい気持ちと同時に早く帰ってきて欲しいという気持ちが同時にあり、出来る事ならば地団駄を踏んでそこら中を転げ回りたい焦燥に駆られていたのである。
だが、彼も現代っ子であった。
インターネットで最終防衛線ともいえる時間を調べてあり、それは午後3時であると考えていた。
そうして顎を噛み締め、貧乏揺すりをしながら待ち受けた。
だが、3時を過ぎても何の音沙汰もなかったのだ。
腕時計の秒針が午後2時59分50秒に差し掛かると桃児は秒針が0.5秒動くたび、玄関先と時計の文字盤を交互に見やり泣きたくなる様な気持ちでいたが、午後3時ジャストになった途端、吹っ切れた。
自分が設定した時間が来た事で気持ちに区切りがついたのだろう。
責任の居所が曖昧だった状況を、今から自分が責任を取るのだと考えた事でそれを行動力とする事に成功したのだ。
彼は玄関から居間にはいると宣言した。
「今すぐ、疎開するで。忘れモンの無いようにな」
「…兄ぃ。お父ちゃんやら連絡取れへんの? もう少し待った方がええんとちゃう?」
「いや、俺もそうしたいんは山々やけど、もう時間がない。お父ちゃん達は自分の仕事で手一杯何やろ。じゃかい、俺らは俺らで行動せんとあかんのや。な、分かったか桃子」
「…うん」
「みさきちゃんもええかな?」
「はい、お願いします」
「おう、俺にどーんと任せとき。ならな、戸締まりはバッチリやな?」
「モチや」
「なら行くで。はよせんと電車がなくなってまうからな」
「はい」
彼は玄関に用意してあったリュックサックとウエストポーチに詰めた非常用の財布の所在を確認した。
コレを忘れると色々と困った事になってしまうからだ。
3人して急ぐ事数分、第三新東京市の内側をぐるりと取り巻く環状線の駅にたどり着いた。
これはモノレールのような逆さ凹型のリニアモーターカーであるが、新都市交通システムの制御系を採用していた為、基本的に無人運転である。
その為、避難が大分進んだ状態であったが、それにも関わらず通常ダイヤにて運行が為されていたのは幸いであった。
この駅は元々無人だが、もう既にホームには彼ら以外の人影はなかった。
流石に外部鉄道網に接続する箱根登山鉄道の後継鉄道である第三新東京市のセントラル駅には人影が結構あったが、大半は外部から戦場整備の為に派遣されてきた自衛隊員の部隊である。
その物々しい雰囲気に飲まれ掛ける三人であったが、自衛隊員達は未だに子供達が此処にいる事に気付くと急かせるように小田原行きの車輛へと導いた。
それでも不安げな顔をしているとまるでターミネーターみたいなごつい戦闘服の男がニカリと笑いながら桃児の頭を軽く小突く。
「妹たちをしっかりな」
髪をぐしゃぐしゃにしながら彼は扉の方へと押しやる。
「馬頭、自動監視装置の設置だ。急げ」
「あいよ、じゃあな」
閉まる扉の向こうで顔に似合わない笑顔で手を振る男を見ながら鈴原はこれから戦場になる場所で行動する人間の数の多さに驚いた。
列車はリニアモーター特有の静粛さで加速を始める。
見る見るうちに外輪山に穿たれた隧道の陰に隠れて第三新東京市の姿は見えなくなった。
隧道を抜けると、そこから小田原まであっという間に着いてしまう。
第三新東京市発小田原駅行きの列車は静かに停車した。
ホームにはロープが張ってあり、そこには『避難の方・順路→こっち』と書かれた指示坂が張られていた。
この世界に出現した第三新東京市の時代は、西暦2015年と少しばかり未来の存在であった。
交通システムは既にリニアモーターシステムが実用化されていた為、それ以外の鉄路によって構成されている外部の地域の鉄道網とは直接乗り入れが出来ないという事情があった。
例えるならば現在東京都の地下鉄は私鉄路線との相互乗り入れによる利便性を上げているが、現実世界の北海道にある大都市札幌に作られている地下鉄の主流となっているゴムタイヤ式の鉄道が他の路線との相互接続が出来ない事に事情が似ている。
余談だが、この世界の札幌が持つ地下鉄は南北線のみであり、しかも鉄軌である。
その他の地下鉄も我々の世界とは状況が異なるのだが、そこら辺の事は当地札幌に住む方が書かれた時空融合レポートに詳しいので割愛する。出版が近いと云うことなので期待して待つべきだろう。
さて、話は戻すが、以上の理由から列車毎直接外部へと移動することが出来ず、一旦ここで鉄道を降りて駅施設を移動し、異なる路線の列車に乗り換えなければ避難出来ないという致命的なアクセスの悪さが露呈されていた。
小田原駅は新幹線と東海道線、伊豆箱根鉄道大雄山線と小田急線とリニア化した旧箱根登山鉄道線が接続する高い交通量の要衝であるが、それ故に大量の避難民を捌き切れていなかった。
何しろ伊豆半島からの避難民の大半も此処を通過していたのだ。
駅前の広場には大量のバスが長蛇の列になった避難民を飲み込んでいたし、案内板によると小田原港からも船舶による輸送を行っているとの事だった。
兎も角、避難民で渋滞を起こしていた。
並ばずに避難する方法としてあったのが徒歩による街道ルートの踏破であったが、小学生の女の子を連れてではそれもままならない。
よって少々待たされそうであったが、コンスタントに大量輸送と定期運転が可能な鉄道による避難経路が最も安全であると当たりを付け、その列の最後尾に彼らは並んだ。
電車は長蛇の列だが交通事故の起こる可能性が低く、安全と思われた。
その最後尾に三人して座り込む。
「はぁ、此処まで来て足止めとはついとらんのぅ」
「しゃーんないわな。逃げ出してるのはウチらだけじゃないモン。焦ってン仕方ないって」
「まあ、の。長期戦じゃあ」
桃児が頷くと桃子が水筒を取り出していた。
「桃子、水分はギリギリまで取らん方がええで」
「だって喉が渇いてン。しゃーないやろ」
「まあ、脱水症状とか起こされるよりはええけど。トイレもあんな感じやで」
「う? えぇ?!」
桃児が指し示す先には簡易トイレの前に並ぶ人、人、人の列である。
まるでコミケの入場前もかくやと云う程の大混雑である。
いや、向こうの方が手馴れた係員による優れた人員整理術が、実に効率よく捌いているので人の動きとしてはコミケの方が良いかも知れない。
因みにこの世界では世界最大の同人誌即売会コミックマーケット、通称コミケは運営会社が出現しておらず、類似の物としてはソビークと云う大同人市大会が開かれている。閑話休題。
だが、喉の渇きを我慢していても仕方の無い、桃児か少しだけな、と制限を付けると桃子とみさきはそれぞれ持ってきた水筒のキャップを開け、中に入った水分にて喉を潤した。