作者:アイングラッド
第三新東京市市民の避難は既に昨日から始まっていたが、その最終日の事。
ここ鈴原家の家族構成は祖父、父・涼、長男・桃児、長女・桃子そして預かり子の岬の五名である。
避難計画における最初の予定では祖父と父が役場での仕事を終えた後に帰宅し、家族揃って関東へと疎開する予定であった。
なんと言っても長男ですらまだ中学三年生に過ぎず、小学生の二人を引率して長距離を移動するのは難しいと判断した為である。
最初は時空融合後に旅行会社が始めた避難旅行パックに参加しようとも考えていたのだが、意外と参加希望者が多くて抽選から漏れてしまったのだ。その為に疎開先の宿泊券も取っていたのだが・・・。
だが誤算が発生した。役場の仕事も前日には終了する筈だったのだが避難計画の遅れが発生していた為に、高い役職で働く彼らに仕事が集中し、家族に伝言を頼んでいる暇もなかったのである。
そうして避難当日の朝が来た。
桃児が朝になって起床したが、一昨日から市役所に詰めている父と祖父の姿が無かった。どうやら職場で徹夜したらしい。
そのままテレビを見ていると岬と桃子が起きてきた。
「あれ? おとんとおジィ、まだ帰って来とらんの?」
「ああ、仕事が忙しいのとちゃうか? 何しろ十万都市からの引っ越しやけん、役所の方も色々とあるんやろ」
「ふぅ〜ん」
「あのぉ、それじゃ今日の避難はどうなるんですか? 桃児さん」
「おお・・・、いざとなったら三人で先に行くしかないやろ。ここにいても危ないしな」
「はい」
「心配せんとも大丈夫じゃ、ワシが守っちゃるけん」
「な? はい、桃児さんよろしくお願いします」
「はっはっはっ、大船に乗った気持ちで任せとき」
「・・・大船やのうて・・・」
「なんやて? 桃子」
「別にぃ、何でもないワ。さて、朝ご飯作らんと、ミサも手伝ぅて」
「うん、分かった」
そうして彼女たちが作った朝食をテレビを見ながら摂った。普段なら行儀が悪いと言われて消されてしまうのだが、今日に限っては情報収集の必要がある為に仕方のない所だろう。
「いただきま〜す」
「いただきます」
「兄貴ぃ〜、偶には料理手伝ってくれてもええんちゃう?」
「アホ、男が台所には入れるかいな」
「うわっ、ふっるう。今時そんな事言わんて、な、ミサ」
「なっ?! 私は料理好きやし。今のままでも」
「そんな甘やかすからアニキがつけ上がるんやで。少しは厳しいことも言わな、アニキのためにもならんて」
「一々五月蠅いやっちゃ。ええか桃子、男子厨房へ入らずっちゅーてやな。キチンとした漢がそんな所に行くべきや無いんやで」
「面倒押しつけてるだけやん。ホンマ、頼りになるわー」
「なんやて」
「文句あるなら、アニキの弁当、一週間抜きやで」
「うっ・・・すんまへん」
と、言うようにその一家の食事を握る者の発言力が古来より日本では高い。
元々明治時代に富国強兵の名の下に西洋的な男尊女卑を導入する以前までの、民間に於ける日本人女性の社会進出は現在の専業主婦よりも高かったのだが、やはり家庭での食事の用意は女性が優先して担当させられてきた。
何故なら、男は家長として家の権力を象徴しているが男が一方的に威張っているでは女の発言力が弱い、かかあ天下が夫婦円満の秘訣等と言われるほど女権が強かった為それを裏付ける権力、即ち食料配給権を家長の妻が握り家庭内での実質的な権力を得ていたのだった。
そうこうして、食事が終わった三人は何時でも疎開できるように手荷物を纏めた。
だが、未だに彼らの保護者とは連絡が取れず仕舞いである。
「桃子、岬、避難の準備は済んだんか?」
「んー、学校で配られた『きんきゅーじにそなえてじゅんびして置くことのしおり』をみて詰めておいたで」
「う、うちも済んでます」
「どれ、兄ちゃんがチェックしちゃる。見せてみ」
「・・・別にええけど。学生証やろ」
そう言いながら身分証明書替わりに小学校で発行されている写真入りの学生証を取り出すと、慌てた様子で岬もリュックに詰めていた学生証を取り出した。
「無くさん様に首から下げとけや」
そう言うと彼は紐の付いたパスケースを2人に手渡した。
「えー、これダサイやん」
「ありがとうございます」
「避難講習で知っとるやろ、怪我しても誰だか分かるようにしっかり身に着けなあかんねん」
「むー、しゃあないなー」
「後、現金を一〇〇〇円札で10枚」
「便乗値上げでおむすび1個1000円とかになるかも知れないからやね」
「そや、がめつい商売人がどさくさに紛れて値段を上げるかも知れんし、そう言った手合いに大枚渡すと釣り銭誤魔化されるかもしれんからな」
「あと、替えの下着4日分やろ」
「ワイならパンツ一丁で一週間は大丈夫やけどな」
スパーンッ! どこからともなく取り出されたハリセンが良い音を立てて桃児の頭部を叩いた。
「アタ」
「自慢する所ちゃうやろ! なんやねん、それ」
「なーっ、桃児さん、不潔です」
「別に気になら・・・」
「なんか云うた?」
「あー、それから、消毒薬と薬やな、ワイは伝統の赤チンや」
「ウチはマキロン」
「私はキンカンと軟膏です」
「うん、それから忘れたらアカンのが『征露丸』や」
そう言って桃児が独特な臭いが漂ってくる黄色い小箱を取り出すと桃子が舌打ちをしてそれを批判した。
「何云うとんねん、ハラ薬云うたらヤッパ『正露丸』やろ」
そう言いながらやはり独特な臭いのする黄色い小箱をズビシと取り出した。
「なーっ!? セイロガントーイはダメなん?」
と、岬はほとんど臭いのしない黄色い金属缶を取り出した。
因みに『せいろがん』は様々な医薬品メーカーが出している内服薬である。
日露戦争時に腹薬として軍医が発明し、以後各社で発売した為、登録商標されているにも関わらず同名の商品がある希有な例である。
そうして持ち物チェックを終わらせて玄関に出ると、桃児のクラスの委員長である洞木光香理の一家がバス停に集合していた。
彼ら一家も最終日避難派で、今から公共機関を乗り継いで行く為に、バスに乗って駅へ向かい、疎開を開始するところだった。
桃児達が保護者を待つ為に玄関先で呆っとしていると、彼を見つけた光香理が眦をつり上げて駆け寄ってきた。
「何やってんのよ鈴原、早く行かなくちゃ危ないじゃない。妹さん達も居るんでしょ」
「そうは言ってん、ウチのおトンとジさまと連絡が付かんのじゃ。勝手に出てく訳にもイカンしのぅ」
「そうなんだ・・・。確か鈴原のお父さん達って」
「おう、市役所の公務員じゃ」
「ちょ、ちょっと待っててね」
そう言うと洞木光香理は父親の元へ駆けていく。
「待つも何も、どこへも行かれへんちゅーねん」
と桃児がぼやいていると父親を伴って光香理が歩いてくるのが見えた。
「鈴原くんだね」
「は、はぁ」
「私はこの光香理の父親でマックスという者だ」
「マ、マックスでっか?」
「はは、まぁ元日系アメリカ人だからなぁ逆輸入品さ、それはともかく君の保護者の方達と連絡が取れないんだって?」
「はぁ、ウチのおトン達が一昨日から役所に詰めとって、なぁんも連絡が取れんのですわ」
「ふむ、君も知っての通り、ここ第三新東京市は数時間後に戦場になる。早く避難しなければ命の保証はない、それは承知しているね?」
マックスの言葉に黙って桃児は頷いた。
「もし良かったら私達と一緒に避難しないかい?」
「そんな迷惑」
「無責任なことを言うなっ!」
優しそうな眼差しで桃児を見ていたマックスの視線が一気に険しい物に変貌した。
「君には年下の妹が2人もいるんだろう? 彼女達を危険な目に遭わせる気か!? 戦場では何が起こるか分からない、それこそ、予定よりも早く戦いが始まるかも知れない。避難は早ければ早いほど確実なんだ。いつまでもグズグズしている余裕は無いんだよ」
昔海兵隊で鍛えた彼の迫力に、一介の中学生は完全に気圧された。
「そ、それでも、もう少しだけ連絡を待ちます。もし帰ってきた時に居らなんだら、心配させてまいますので」
マックスはその頑固そうな顔を見て次善の策を取ることに決めた。
「・・・そうか。取り敢えず、君の方から保護者の方に連絡は入れたのかな?」
「それが、市役所の方も忙しゅうて電話に出んわ、ちゅう位で・・・」
何となくダメな空気が流れた。
「・・・もう少し頑張りましょう・・・。それはさて置き、避難計画も大詰めだからな、君の保護者の名前は?」
「・・・鈴原涼です」
「では、向こうから連絡が来るように然るべき筋に連絡を頼むことにしよう。ただ、それでも連絡が来ない可能性もある。君は妹たちの安全を守るために行動しなくちゃならない。君たちだけでも疎開しなければならない。分かるね」
「はい」
「では、準備は進めておくようにな」
<七月二日午前の部・終了>