作者:アイングラッド

 西暦2011年3月11日14時46分前後の日記。


 三月一〇日〇〇時、三日間続いた夜中の勤務の最終日、出社したら工場の立ち上げだった。
 氷も張る寒い夜に工場の立ち上げ作業を行っていたのだ。
 事前に何の連絡もなく、いきなりの立ち上げと云う事でかなり混乱した。
 何しろ作業人数分の無線機すら足りなかったのだ。
 他の人が聞こえる指示を聞こえない状態で他の人に合わせて作業を進めるのは非常に困難な事であった。
 ある程度立ち上げが済んで人手が無くても作業が進められる段階に入り、夕方の勤務から数時間の残業をしていた作業員は帰宅し、現場に人数が少なくなったので数が足りなかった無線も手に入った。
 現場の空気を呼んで作業手順を進める必要もなくなり、立ち上げも上手く行った為に翌朝八時に次の勤務の作業員に申し送ることが出来た。
 夜勤明けは非常に眠い。
 よって、更新が遅れていたホームページの更新作業を行わないといけなかったのだが、作業途中で眠ってしまった。
 どれだけ眠っていたのか、目が覚めたらホームページ更新予定日の次の日になっていたのだ。
 直ぐにホームページを更新した。
 それからネットサーフィンやメールチェックを行い、少ししてから又眠って昼前に起きた。こうして見るとかなり寝過ぎの気がする。
 夜勤終了の翌日は夜勤明けの休みが一日あり、その次の日は夕方から夜中の零時迄の勤務となる。
 つまり、数時間後には弁当の用意をして、出勤しなければならない。
 ここの工場に転勤してきて以来、会社で食べる夕食はコンビニ弁当が多かった。
 近隣に食堂とか無かった立地であったので、社外に外食という行動は取れなかった、会社の食堂など最初から無い。
 と言う訳で、家と会社の間に出来たローソンで弁当を買うのが常であったのだが、最近は弁当を作り始めたのだ。
 冷蔵庫の中を確認した所、かなり物が減っていたので後日買い物に行こうと考えた。
 米櫃の中も後数食分しかない、そんなに慌てて買う必要はない、とその時は考えていた。後悔先に立たず、と言う奴である。
 さて、会社で食べる夕食は一八時位に成るので数時間は弁当を置いて置かねばならない。
 外気温は涼しい、と言うか寒いとは云え、屋内は程々に暖かい。
 弁当箱には白身魚を焼いてほぐして入れて、暖かいご飯も一緒に冷蔵庫に入れて冷やして置いた。
 そうすると出勤するまで約一時間ほど余裕が出来てしまった。
 昼寝をするには短いし、シャワーを浴びるほど汗も掻いていないので、のんびりとメールチェックやネット閲覧をする事にした。
 四六V型液晶テレビに繋いだPCでネットサーフィンをしてしたら『ズゴン』と轟音が地の底から響き、建屋がミシミシと異音を上げた。
 ここ最近、地震が多かった、前日にも地震があり、伯母さんから確認のメールが来ていた位だ、なので、又かな?、程度の考えしかなかったのだが、そんな物は直ぐに消し飛んだ。
 初期微動は矢鱈と長く続いたように思う、それが本震なのではないかと誤解しそうになるほどだった、だが、最初の本震が来た時、建て屋がミシリと音を立てた。
 ギシギシギシギシと居間にあるすべての家具が軋み始めた。
 だが最初は余裕があったものだった。
 いつも体験する大きな揺れは震度四位。
 それより少し大きなだけの地震じゃないか、どうせ直ぐ止むし、と余裕を持って座ったまま終わるのを待った、だが予想に反して地震は更に激しさを増したのだ。
 座ったままの座椅子が滑る、直ぐ近くにある金属フレームの棚がズレる。
 激走する満員の路面電車をも凌駕する激しい揺れが襲って来た。
 地鳴りは響き、揺れは洒落にならない程の振幅で縦にも横にも揺れ続け、何時まで経っても終わらず、更に、更に激しくなるばかりだった。
 目の前にはそびえ立つように液晶テレビがあり、右手には金属フレームの棚と自分で設置した神棚が、左手には窓際に並んだ本棚が並び、すべてが激しく揺れている。
 もしもこのままこれらが倒れてきたら怪我を負ってしまう、そしてそのまま埋もれて動けなくなったとしたら・・・・・・神戸の震災で聞いた話が脳裏に浮かんで来る。
 寝室で寝ている所に被災して、倒れてきた家具に挟まれて身動きが取れなくなる状況、一人暮らしの自分には最悪の状況だ。
 玄関に鍵が掛かり、今居る居間は二階にある、窓から覗いて助けに来てくれる事は期待出来ない、そしてそのまま衰弱してしまう何て事になったら。
 それが怖くて怖々と立ち上がろうとした。
 だが、既に地震による揺れは普通に立ち上がる事すら困難とする位に激しくなっていたのだ。
 激しく前後に揺られながら少し屈み気味の姿勢で立ち上がる事が出来た、ガシャンガシャンと音を立てる家具に注意しつつ、周囲と頭上に危険物のない居間の真ん中へと慎重に足を進めた。
 家が崩壊するのじゃないかと云う不安に襲われるほど軋みを上げる部屋を見回すと、外のベランダに置いてドジョウを飼っていた百リットルの桶の中の水は激しく揺れて周りに零れ出している。
 それに追添する為に用意していたバケツは居間の隅に置いてあったのだが、八分ほど入っていた水は揺れによって半分ほどに減り、バケツの周囲へと零れ出していた。
 咄嗟に足下にあったタオルを放るが揺れの所為で目標が10センチ単位でズレ続けている。
 何とかバケツの近くへ落ちたので、水が広がり続けているのを止める事が出来た。
 その間にも窓際の本棚は倒れて中身は飛び出し、上の階から恐らくは買ったばかりの金属製の本棚が崩れる音がする。
 だが数分が経過していると云うのに、自由に動けるほど揺れは小さくならない。
 いや、一時的に弱くなりこのまま収束するかと思いきや更なる激しい揺れが襲い掛かって来るのだ。
 ギッギッ、と厭な軋み音が響いて来る中、このまま家が崩れて潰れてしまうのではないかと怖くなる。
 三十秒後に自分が生きているのか予想出来ない事になったのは生まれて初めての経験だった。
思わず部屋の真ん中で半ばしゃがみ込む、すると台所の戸棚からグラスや皿が落下して割れる音が響く、サイドチェストが崩れ、上に載せていた電気ケトルや珈琲メイカーが床に散乱する。
 壁に固定していた5.1チャンネルの音響システムの右後ろのスピーカーが落下する、何もかもが揺れたてて、もう勘弁してくれと云いたくなるが、何時まで経っても終わらないのだ。
 ガガガガガッとテレビもPCの画面も激しく揺れて、電気が切れた。
 しかし、揺れは終わらない。
 思わず呟く、「超怖ぇえ。」
 信じられない程長く続いた地震はようやく切れた。
 聞こえてきたのは静寂か? 普段ならば聞こえてくる生活音が消え、耳鳴りの様な「おおん」と響いて来る音が感じられた。
 地震の本震自体は収まったが、時折地面の下から物が崩れるような地響きが響いて来る。そう言えばお隣さんに聞いたのだが、この家を建てる時に土台をしっかりと掘り下げていたと言っていたので地面の揺れを拾い易い構造になっているのかと思いつく。
 一時揺れも収まり落ち着いたかのように見えたが、普段なら巨大地震と云える程の余震が続けざまに襲ってきた。
 恐怖に震え上がるが、努めて冷静にならないといけないと心掛け、普段着に着替えた。
 停電し、テレビも付かない為に一階に降りてブレーカーを確認してみた。
 数回オンオフをして見たが反応がなかった、これはもう電信柱自体に問題があるのだろうと思って、そこにこだわるのは止めた。これだけの巨大地震で停電しない方が不思議だと思えたからだ。
 情報が何も入らないので、不安になった。何より此処は海岸から一キロしか離れていない上に、藤原川が後ろを通っているのだ、もしも津波が到達し、背後の堤防が溢れたらと思うと、焦る。
 しかし、いわき市の此処ら辺は一七時になると鳴り出すモーター式のサイレンは設置されているが、放送設備が設置されているのかは分からない。聞いた覚えもない。もしも何か警報が出ていてもそれが分からないのだ。
 現に表から消防団の消防車のサイレン音が聞こえてくるが、その他の音は終ぞ聞こえてこなかった。
 取り敢えず表に出て隣のお爺さんの家に向かう。
 俺と同じく一人暮らしの為、家具の下敷きになっていたり落下物で怪我をしていたら直ぐに救出しなければならない。
 ほかのご近所さん方もご高齢の方達が多く、力仕事があれば率先して動かなければならないと考えられたからだ。
 玄関で靴を履き、道路に出て自分の家とお隣さん、そして周辺の家の状況を確認する。
 幸いにして外壁や屋根に罅、欠落、崩壊、窓ガラスの割れなどは見当たらなかった。閉めてた筈の窓が半分開いてしまっていたが。
 だが、その他には様々な異常が目に付いた。
 目の前の道路は一〇センチ以上陥没し、液状化で吹き出した泥水が溜まり込んでいた、あちらこちらのマンホールが地面から飛び出し、道路のアスファルトには亀裂が走っていて余震が来ると左右にズレる、電信柱は傾ぎ、近くの信号機は明かりが点っていない。その為に早速渋滞を引き起こしていた。
 幸いにも切れた電線が地面に垂れると云った直接的な危険は見受けられなかったのが幸いか。
 お隣さんの家の前に数歩で着くと、何やらテレビの光と音が聞こえる。
 ありゃ、まさか家だけ停電なのか? 家に引き込む電線や内部回路が切れてたら修理に何ヶ月掛かる事だろうか、この被害規模では当分業者さんは捕まらないだろう。そう思いながらお隣さんの玄関のインターホンを鳴らすが反応はない。
 よもやの事態かと緊張し扉を開けさせて貰った。
 鍵は開いていたので中に顔を入れ確認すると、お隣さんは窓の方から外を見ていた。
 声を掛けるが聞こえないのか、再度呼びかける。
 漸く気が付いて貰えて確認してみると怪我はしていない様だし、家の中が崩れている様子もない。
 その時テレビの画面が見えたのだが、緊急放送がやっていて、画面には津波警報の絵が表示されていた、此処ら辺は・・・え、大津波警報って何!?
 家の前の通りは興奮しながら家を飛び出してきた人達で溢れかえっていた。
 時折、ズズンと腹に響く地鳴りがして大地が揺れる。
 路面を見るとマンホールが妙に浮き上がり、アスファルトの割れ目から泥が吹き上がっている。

「大丈夫ですか、怪我はないですか」
「おおアンタか、いやぁ大変なことになったねぇ、長い事住んでるけどこんなのは初めてだよ」

  お隣さんの家は地区云十年の木造住宅で不安だったので、余震が落ち着くまでは表に出ていてはどうかと喋ってみた。
 ちょうど近所の人が表に集まっていたので少し話を聞いてみると、二件隣りの家の屋根がへこんだという話だが、取り敢えず誰も怪我をしていないと聞いてほっとした。
 そうしているといつの間にか出社の時間になっていたので会社に向かうことを近所の人達に伝える。
 家に入ってメインのブレーカーを下ろす。これは阪神淡路地震の際に停電が終わったら火事が発生した事を覚えていたからだ、家の中は荷物が散乱しグチャグチャになり、どういうトラブルが起こるか分からないからだ。
 そのまま避難する事も考慮に入れて冷蔵庫の中に仕舞った弁当を取りに行ったら、冷蔵庫の中身が飛び出て扉が開きっぱなしになっていたので片付けて閉めた。
 何時まで物資が不足するか分からないので、悪くならない様にしなければならないからだ。
 弁当を鞄に仕舞うと表に出て近所のおばちゃんらに出社する事を告げた、行政や自治会から安否確認が来た時には生きている事を伝えて欲しいと云う事をお願いし、ブレーカーは落としてある事を告げた。結局数ヶ月経っても安否確認は来なかった訳だが。
 自転車に乗って会社に向かうが、信号機は全停であり交差点は泉方面が大渋滞でどう自動車が動くか予想も付かない、また、動転した自動車の運転手が気が荒くなって運転が乱暴になりやすいので気をつけて走る事を心に留める。
 道端には、沿道の家から家の外に避難する家族の人達の姿が目立っていた。
 電柱は傾ぎ、歩道と道路はでこぼこ、段差も激しい。
 消防団のサイレンは鳴り響き、犬は吠える。
 騒然とした空気の中大きな交差点に差し掛かるが、観光だろうか、いわきららみゅうやアクアマリンのある海岸から避難する自動車や大型バスが大渋滞であり、信号機が止まっているので渡るのに躊躇する事になった。
 何しろ隙が空けばそこに入ろうとしているので、交差点のどの方向からどのタイミングで自動車が来るのか予想も出来ない。
 仕方なく渋滞の列が出来る前まで戻って道路を渡り、再度交差点のところでタイミングを見てお辞儀をしながら自動車の前を横切る。
 公園入り口を左折して会社に向かう途中で会社の人達が作業服や制服姿でこちらに向かってきた。
 状況を知りたかったので声を掛けると、所内の人間は公園に集まり点呼を取ってから避難するとの事なので、私服姿のままであったが自転車を押しながら一緒に公園へ向かう。
 公園の隣のパチンコ屋は相変わらず自動車が沢山止まっていた、地震が終わってから再開するつもりなのか、余り自動車が出て行こうとする感じはなかったが、少しずつは帰る車も見えている。
 公園にあるバックネットの側に自転車を置き、余震で震えるマウンドの側で立っていた。
 この余震を取ってみても大地震と云える程なのだが、やはり最初の揺れと比べると小さいのだろう、電柱やバックネットからは厭な軋み音は聞こえる物の地割れや更なる液状化は見られなかった。
 公園に避難している人達を見ると、家の工場の人達だけではなく、近所の人も結構居た。
 その中によく利用する立ち食いそば屋のオジちゃんが居たので声をかけてこれからどうなってしまうのか色々話をした。
 そうしている間にも、ぞろぞろと会社の人達が集まってくるが、自分の所属する三交代勤務の人の姿はない。
 会社の上司の人を見掛けたのでどういう事かと聞いてみると、工場内の電気が落ちたので、コンピューターによって制御されているバルブ等が制御出来なくなっているので、工場の立ち上げを考えると必要最低限の手動弁を操作してから避難してくるとの事。
 大丈夫なのか? 悠長過ぎるのではないか? 俺なんか、今道路の向こうから水が押し寄せてくるのじゃないかとドキドキしながら待機しているのだが。
 そうこうしていると彼等もやってきた。
 話を聞くと、いきなり停電でどうしようもなかった、との事。
 折角、夜勤ラストに工場を立ち上げて順調に生産に移りつつあったところだというのに…ガックリだ。
 その間にも余震は続く。
 平坦な公園でさえも最初の揺れで発生した液状化現象で泥の池が出来ており、花壇の囲いには大きな罅が入り、土盛りも崩れていた。
 その時に聞いたのだが、やはり正式に津波警報が出ているらしい。
 第一波が一六時三〇分に到着するとの事だ。
 既に一〇分前だが、第二第三の津波の方が高い場合もあるらしいので解散後、直ぐに自主的に避難する事を決めた。
 話を聞くと、避難場所はかなり離れた所にある小学校で、ここよりも海に近い気がする場所だ。
 ならば指定避難場所に行くよりも、高い場所を目指すべきだ、何で自分よりも昔から津波被害に遭い易い場所に住んでいるのにそうは思わないのか。
 やはり今まで大丈夫だったから今回も大丈夫とか思ってしまうのだろうなと思わざるを得ない。
 後に聞いたらくるぶし位まで津波が来たそうな。
 ただの水だけでもやばいのにガレキ交じりの津波じゃケガじゃすまないから怖くてその選択肢はないな。
 では解散と云う事で、自分は自転車な物で前を行く人たちを追い抜いて自宅に向かう。
 今持っている物が弁当だけなので、必要な物を取りに行くのだ。
 一度家に戻ると、まだ近所の人達は避難していなかった、まだ避難しないんですかと声を掛ける。
 すると津波警報の通り五メートル位ならここら辺は大丈夫だ、との事だ。
 だが慢心は危険と思い、避難すると告げる。
 家に入り、玄関に倒れ込んだ帽子掛けを避けて三階へと上がる。
 こういう時の為に用意して置いた物を探しに行くのだ。
 クレジットカードの点数が溜まった時に、こんな事もあろうかと、購入した椅子にもなる避難バッグを崩れた書斎から持ち出して、会社から支給されて階段横に仮置きしていた缶入りパン(丁度消費期限が十一年三月だった)を弁当と一緒に自転車の荷台に詰め込んで出発した。
 今度の自転車は17サイクルから発売されていたS・17と云うセミリカンベントタイプの自転車で、足を前に出してペダルを漕ぐ物だ。
 後ろにトレイラー、一輪のリアカーを取り付けてあるのである程度の荷物を運ぶことが出来る為、少し嵩張る避難バッグを載せるのに必要だったのだ。欠点は登り坂に弱い事だ。高い所に避難しなければならないのだが、仕方がないでござる。
 相変わらず道路は渋滞していた為、出来るだけ自動車の通らない裏道を選んで山の方にある鹿島神社へと向かった。
 途中で重く雲が立ちこめたかと思うと雪が降ってきた。
 こんな時に雪とか、泣きっ面に蜂だなと思った。コートは着てきたが、それだけで過ごせるだろうか。
 家から直ぐ近くのパチンコ屋の脇を通るところで同じ会社の作業服を着た女性社員の方達二人を追い抜いた。
 因みに場所は藤原川から一〇〇メートル程、津波で増水した川が氾濫したら危険な場所だ。
 陸橋の下をくぐり、細い畦道を行き、藤原川に掛かる橋の袂に着いた。
 ここを渡らないと山へ行けないので川の様子を橋の欄干から確認する。津波が来ていたら急いで川を渡って山に逃げなければ。
 見ると川下から川上へとゴミ混じりの水が逆流していった。
 明らかに増水している、が、まだ河川敷が洗われる程度だったので橋を渡る事にした。
 ここで写真か動画を撮影しようとスマートフォンのIS01を取り出した。
 スイッチを入れると電池が10%を下回っています、と表示されて切れた。
 そう言えば此処の所充電していなかった、家族にも連絡が取れないじゃないか、しかし家に戻っている余裕は無かったので諦めて先を行く。
 橋を渡り、道を横切ろうとしたが妙に渋滞していてぜんぜん自動車が動かない。
 よくよく見て見ると、道の先のバイパス道路と繋がっている場所が冠水している。
 川が増水して、排水溝から逆流した様だ。
 自動車がじりじり移動しているので妙に渡りづらい。
 車が引き返すタイミングを見て道を渡り、少し行った所を左折して鹿島神社へと至った。
 土手を一度下って行くので、津波が来て土手を乗り越えて来たらアウトだ、川の様子を確認してから急いで走った。
 正月の初詣用に広く取ってある駐車場はしかし、ガランとして誰も駐車していなかった。
 どうもこの場所は避難場所としてあまり人気が無いようだ。
 それはそうだ、自動車に乗って五分も行けば大分高い所に行けるのだから、わざわざこんな所で避難する必要もない。
 自転車を押して境内へと入る。
 社務所を覗いて見ると、人が居た。
 境内に避難させて貰いますので、と断りを入れて自転車を押して奥の御神輿を仕舞っている格納庫の前に避難バッグから中身を取り出し、椅子にした避難バッグの上に座った。
 未だに雪がチラホラと降る中であったが、軒下に居るのは余震でミシミシ言っているので非常に怖いものがあった、その為に少し離れては居た物のこの木造の建物が倒壊して来たら大変な事になるので緊張した。
 何しろ、此処に来るまでの道のりで、左右に建っている建物こそ崩壊している物はなかったが、ブロック塀の大半と石造りの塀のほとんどが崩れて道路側に倒れてきていたのだ。
 灯籠などの倒壊に巻き込まれない場所を見定めて、小雪の降る中、避難バッグの中身を確認した。
 飲料水五百ミリリットルひとつ、アルファ米、携帯ラジオ、手回し発電器、水運搬バッグ等が入っていた。
 携帯ラジオに単四電地を三つ入れてラジオ放送を確認すると、東北沿岸に大津波警報が出ていると言っていた。
 高さ五メートルの津波であれば、大丈夫そうにも思えるのであるが、海岸からそれほど離れていない場所であり、川からも大きく離れていないので、もしかしたら目の前まであっという間に海が押し寄せてくるのではと、目の前の風景を見つつ想像する。
 とは言え、ここでする事もなく、腹も減ってきたので持ってきた弁当を使うことにした。
 上段に白身の焼き魚を解したオカズに漬け物、下段に白いご飯、冷蔵庫から出して大分経つが気温が低い為にすっかり冷えている。
 少し短めの弁当用の箸で堅いご飯を頬張った。せめて温かいお茶があればと思わずにはいられない。
 神社の境内に避難してから少し経った頃、神社の方が来て神社の太鼓の練習場に来てはどうかと言ってくれた。
 数基の和太鼓が並ぶ小屋の中に靴を脱いだ後に入らせて貰い、石油ストーブを点けて貰った。
 冷え切った身体に暖かい熱源は非常に心地よかった。
 三十分後、ここを閉めるので出て貰いたいとのこと。
 残念だがまた表で待機することにした。
 徐々に暗くなる空、めっちゃ寒くなる空気。
 コートにくるまりガタガタ震えながら我慢した。
 津波はいつ襲ってくるか分からない。もしかしたらこの暗くなった海の方から今まさに押し寄せてきているかも、心配になる。
 何しろ津波は第一波よりもその後の方が大きな被害を出す事があるのだから。
 ラジオからは今まで知らなかった陸前高田市や、今年一月に行ったばかりの塩釜市などが壊滅的な被害に遭ったと言っている。
 そして、後に知ったことだが、十九時過ぎに最大の津波が小名浜港を襲っていたのだ。
 だが、寒すぎてもう限界だった。
 ガタガタと歯の根が合わず、目が回りそうだった。
 仕方なく帰宅を決意する。
 時は十九時頃、社務所に顔を出し、家に戻ることを告げ、お礼を述べて自転車に跨がった。
 橋を渡る時に川面を見てみるが真っ暗な為に良く見えない、だが欄干の直ぐ側まで水が上がって来ておりもしかしたら堤防を越えてしまうかも知れないと覚悟した。
 後日に見に来たところ、堤防の上の方まで水の跡があり、海から流されてきた漁船が堤防の途中に引っかかっていた。
 もう少しだけ津波が高ければ、家は正面の海側と背後の川側からダブルで被害を受けていたかと思うとぞっとする。
 実は最も津波の高い時間にノコノコと自宅に戻って行った訳だが、そこから海岸に近い場所である自宅方面の道路はかなり渋滞していた、道には結構な数の人が歩き、興奮気味である。
 その道の途中にコンビニ以前の酒屋みたいなスーパーが営業していたので寄ってみた。
 かなり慌ただしくお客の数も普段より多い。
 店内を歩いてみると被災生活で役に立ちそうなレンジでチンのレトルトご飯やミネラルウォーター、お茶等は既に売り切れていた。
 正直、何時まで物資が入らなくなるのか想像も出来ないので、カロリーを稼ぐのに最適な「非健康的な高カロリー食品」を探した。
 そこで明治の板チョコ十枚とコーラ1.5リットル、凍えないように携帯懐炉を購入した。
 不気味な軋み音の響く中、家に帰って玄関近くの集電盤へ向かう。
 真っ暗なので足下が良く見えない、注意して近寄りメインブレーカーを入れるが電気は入らなかった、電灯で照らしたら漏電遮断器が働いていた。
 取り敢えず遮断器のボタンをリセットし、まず一階のブレーカーを入れる。
 すると無事に玄関の電灯が灯ったので、照明関係のブレーカーを順次入れる。
 一気に全部ブレーカーを入れないのはコンセントが中途半端に剥き出しになっていて火災が起こることを懸念した為であり、特に三階の書斎は本棚が倒壊し、PCが倒れている故に火災の危険が高いと判断出来た。
 電灯が点き地震で散らばった物が散乱する中、二階に上がって台所へ行く、散らばった魔法瓶や電気ケトル、コーヒーメイカーや電子レンジ、割れた食器類に注意して台所に立つ。
 流しの中は上の食器棚に入れていた食器類の半分が中に落ちていた、更に半分は割れていた。
 スプーンなどを入れていた引き出しもほとんど出ていて、そこに落ちた食器類がバウンドして床に落ちた様だった、中には割れていなかった物もあったので不幸中の幸いと言える。
 蛇口を開いてみるとゴーッと云う空気が流れる音はするが水は出ない、水道は止まっていた。
 これで自宅内にある飲料水は、魔法瓶に入っている分の一リットルしか無いことが分かった。
 いつもご飯を炊く為に用意してある水のポットは床にひっくり返っていたのでダメだったのだ。
 水がなくて困ると云えば、トイレだ。
 飲料水は最低限口から飲む分だけが必要だが、トイレ用の水流す必要がある為に或る程度大量になくてはならない。
 一階に行き、風呂の水の量を確認する。
 自分は心配症のために「こんな事もあろうかと」普段からお風呂を使用した後にも水を抜かずに風呂に水を貯めていたのだが、残念ながら地震の揺れでこぼれてしまい風呂桶の半分以下まで減っていた。
 取り敢えずラジオの情報では分からない事が多かったのでテレビを見ようとしたが、地震で位置が大幅にズレていたので元の位置に戻し、電源を入れてみた。
 幸い落ちた訳でもなかったので無事に電源が入ったことに安堵した。
 予想通り全ての番組が緊急特別放送を行っていた。
 そこで初めてテレビで今回の地震のニュースを見た訳だが、予想以上の映像にかなりビビった。
 その中に自分が暮らしているいわき市の小名浜漁港の映像があった。
 つい先日も魚の干物を買いに行った場所が津波に襲われていた。しかも自分の背丈よりもずっと上の場所だ。
 正直、何故こんなに高い津波が襲って来ているのにこの自宅が無事なのか理解出来なかった、だってあんなに高い津波が来ているのなら、海抜的には同じ様な高さのここら辺も津波が来ていて不思議ではない。
 実は目の前の道路まで津波が来ているのではないかと、思わず窓から外を見てしまったくらいだ。
 さて、取り敢えず無事で家に帰って来られたので、家族に無事であると連絡を入れようと思い立った。
 固定電話の受話器を取り、電話番号を入力し実行する。聞こえてくるのはプー、プー、プーと云う音のみである。
 携帯電話を充電器に繋ぎ、電源を入れる。
 ANDROIDが起動し母、父、弟、妹、伯母に電話を入れようとするが、アンテナが立っていなかった。
 こういう場合、色々な人が安否を気遣って電話しまくる所為で飽和状態になる、過去の震災や正月、夏冬の会場で同じ状況になった人も多いと思う。
 ダメ元でメールを送ってみる、一瞬でも繋がれば送れるかも知れないからだ。
 ダメだった。
 もしかしたら通話は出来なかったが光回線でネットは出来るかも知れないと一縷の望みを掛けてメールソフトを起動し送信してみた。
 やっぱりダメだった。
 家族に連絡を取りたくともその方法が無いのだ。
 テレビからは刻々と津波による被害が報道される。
 激しい余震が続々と続く。
 テレビで見たような超巨大な第二,第三の津波がここを襲わないとも限らない。
 心臓がドキドキして落ち着かない。
 心労が激しくて気疲れがどうしようもないほど大きいのだ。
 もしかしたら次の瞬間、窓から水が押し寄せて来て行動する間もなく流されてしまうかも知れない、巨大な余震でいきなり建屋が崩壊したりしないだろうか、板チョコをかじりながらコークを飲みつつテレビを見ながら心配は募るばかりだ。
 やたらと疲れたので一〇時過ぎに寝た。
 一種の逃避行動である。
 だが何時更なる天変地異が発生して避難しなくてはいけなくなるのか分からないので、三階の自室に敷いたままの煎餅布団に普段着を着たまま入り、布団の脇には非常食等を置いておいた。
 当然の事ながら寝ている間に荷物が崩れて来て怪我をしたり身動きが取れなくなると困るので周りの荷物を避けて置いたり準備は万端だ。
 鼻にシーパップを装着し、鳴り止まない地響きの音と激しい揺れに揉まれながらも、直ぐに眠る事が出来た。
 だが翌日と言って良いのかどうか、大体四時間後の午前二時過ぎに目が覚めた。
 まだまだ状況は変わっていないようだった。
 二階の居間に降りてPCを立ち上げるとネットに繋げられる様になっていたのでメールソフトを立ち上げる。
 すると妹と伯母からメールが届いていた、あと弟と。
 返事のメールを出した。
 とりあえず無事、と簡単に状況を五行にまとめた物を送信。
 怪我なし、無事。
 携帯は使えない。
 家屋の損壊なし。
 家の中はぐちゃぐちゃ。
 正直、怖かった。
 文章量が多いと途中で弾かれてしまうのではないかと怖かったのだ。
 取り敢えずネットが使えるようになったのは通信が減ってきた所為なのかと携帯を見てみるとアンテナはまだ立っていない。
 「スーパーSF大戦」繋がりで知り合った人達に取り敢えずの無事を知らせる為にホームページと掲示板に現在の状況を報告した。
 腹が減ってきたので炊飯器に残っていた最後のご飯を納豆で食べた。
 これを食べてしまうと炊き立てのご飯は水がないので当分の間炊けない。
 冷凍庫に仕舞ってあるご飯もあるにはあるのだが、乾燥してガチガチである。
 おじやにしてだったら食べられそうだが。
 それから少しニュース(NHK)を見て、2時間程経ってから又、眠った。

 2日目。三月一二日土曜日
 九時頃目が覚めた。
 地響きと地震は相変わらず続いている、大きい地震が数分置きに襲ってくる、のではない。
 最低でも震度一の微震が大地を揺らし続けており、時折震度五とか四がやって来るのだ。
 しかし、震度が一違うだけでこんなにも違いがあるとは。
 二階へと降りてテレビを見る。
 津波が酷い事になっていた、新しい映像資料がテレビ局に届きその悲惨な状態が晒された。
 昔から津波で甚大な被害を被って来ていた三陸や被害が少ないと言われて来ていたいわき市でも海岸沿いの住宅地は薙払われており、特にリアス式海岸で有名な石巻市などは全てが更地になっているように見える。
 そう言えば震災が起こる前に地層を研究していたら千年に一度巨大津波が襲っている形跡が見つかったとか云う話を聞いたことがあったような、まさか今年が(大体)千年目だとは。
 それから、福島第一原子力発電所の一号機がやばい事になっていた。
 地震で原子炉は緊急停止したが予断を許さない状況との事、激ヤバである。
 地震や津波は天災である、じっと耐えて復興に精を出せばいつかは希望が見いだせる。そう思って頑張ることが出来るが、原子炉はダメだ。
 いつまでもいつまでも痕を引く。
 だけど優秀な技術者の人達が現場で対応に当たっている筈、大丈夫だ、そう信じるしかない。
 携帯を起動し確認した所、auは未だ繋がらなかった。
 固定電話も夜中は通じていたのに、又繋がらなくなっていたのでネットでメールも出来なくなっていた。
 テレビを見ていたら小名浜の公民館に地下貯槽式の給水所があると出ていたので、今日は水の確保と食糧の確保を行う事にした。
 激しい余震の中、まずは会社に顔を出して状況確認と報告する事を決める。
 GIANTの自転車に乗り正門に行くと事務関係の人が正門前に立っていて、敷地の中は瓦礫と倒壊しそうな建屋が危険で、中には入れないと云う事だった。
 取り敢えず名前を告げてから家に戻る事にする。
 いつも利用する会社近くのローソンがやっていたので店に入る。
 特に変わった事のない普通の営業であったが、やはり水とお茶と、その他にパンの類とカップ麺は無くなっていた。
 どのみち水がなければ作れない物なので仕方がない。
 店内を眺めて見るとパン売場の上に干し芋が3パック有り、やたらと人気がなかったので2パック購入する。
 近くの棚にある栄養ドリンクコーナーでニンニクの力SUPERを二つ購入。グリコのマイルドカフェオーレを二つ購入。Lチキが揚げたてだったので一つ購入。
 電気が来ているお陰だろうか、クレジットカードが使えたので助かった。
 玄関に荷物を置いてリカンベント式の自転車にトレーラーを着けた自転車に保冷バッグとペットボトルに給水バッグを載っけて公民館へ向かう。
 路の途中では所々に点いていない信号機があったので走ってくる自動車に気をつけながら道を行くが、歩道にはブロック塀や大谷石の塀はかなりの割合で倒壊していて半分ほど塞いでいた。
 しかもブロック塀の場合は中に鉄筋が入っている為に完全に崩れる事なく今にも崩れそうな様子で地震に揺れているのだ。
 虎ロープで表示してはあるがかなり危険なことに変わりはない。
 公民館の近くにあるヨークベニマルへ自転車を止め、公民館へと向かうが物凄い長い列が出来ていた。海浜幕張でやっていた時のコミケのような長蛇の列だった。
 駐車場の中をグルグルととぐろを巻くように曲がり、脇から見ると五つの蛇口に人が着いて水を補給しているが、勢いは弱く、チョロチョロとしか流れない。
 背に腹は代えられないと一応並んでみたが、一時間で三〇メートルばかり進んだ。
 残りは五〇〇メートル以上…。
 その間も激しい余震で地鳴りと建物の軋む音が鳴り響き地割れが動く、その度に不安気な声が広がる。
 正直このまま並んでいても労力が大きいばかりでやってられないので、ヨークベニマル小名浜店へ足を運んだ。
 店内へは特に入場制限もして無くて、そのまま入る事が出来た、だがレジ待ちの列が長かったのに驚いた。店の反対側にまで届いていたのだから。
 幸いにして店内に物資は未だ豊富にあったが、パンはほぼ無くなっていた。
 取り敢えず保存の利く物や何かを買う予定であったがまだ前日の鮮魚とか並んでいたので、アブラガレイの切り身と鯖の一夜干し、他にもクノールコーンスープ1リットル、さらし豆、納豆2パック、堅焼きソバ、中華丼の素、キャベツ一つ、、モヤシ一キロふたつ、麻婆モヤシの素、モヤシ鍋の素、挽肉、コーヒー牛乳、ベーコンステーキ、ベーコン等である。
 一応鮮魚は家に帰って個別に冷凍し、早めに悪くなるモヤシから使う事を心掛ける。
 こちらでもクレジットカードが使えた。現金が減らなくて済むので有り難い。
 手持ちの現金は、一万円札が一枚と五千円札が一枚で小銭は無し。
 自販機での買い物が出来ずに微妙に困る、今の所、自販機のラインナップの中で水とお茶はどこも売り切れているが、ジュースやコーヒーはそれなりに残っているのだ。
 自販機が利用出来ないのは困るかも知れない。
 家に帰ってきたらえらい事になっていた。
 福島第一原発1号機が爆発。
 計画的に止まったんじゃなかったのかと思ったが、後に分かった事だが問題は地震ではなくて津波による施設の流出だった様だ。(三月一五日時点)
 日が高くなり映像が撮りやすくなった為だろう、その頃から続々と入ってきた津波の映像はショッキングな物だった。
 実は今年の一月から月に一回の割合で仙台へ行く用事があり、常磐線で移動していたのだ。
 そのスーパーひたちの車窓から見ていた光景が次々と波に押し流されて行く。
 被災した列車の悲惨な姿がテレビに流れていた。
 予定では三月一四、一五日に東京の実家に行き一六日に仙台に向かう予定だったのに。
 数日の差なんか誤差みたいな物だから、下手をすると津波に巻き込まれたりした可能性は十分にあった訳だ。
 夕方に上司の人が来て津波注意報が消えるまでは自宅待機と指示された。
 夕飯はクノールのコーンスープに残っていた牛乳を投入して暖めた物をカップ一杯、ベーコンステーキの半切れを使った目玉焼きの崩れた物とトーストを二枚。
 使用できる食器が少ない上に、洗えない。

 三日目 三月一三日日曜日
 本日は自宅待機、だが、トイレの水も風呂の中の水が減ってきたので心許ない。
 又、必要な物資がない事と泉方面の道路や鉄道の情報、東京方面の高速バスの情報を得る為に泉町の方へとリカンベントにトレーラーを着けて、ゴミ箱にゴミ袋を積んで移動した、用水路の水であってもトイレの水には問題ないからだ。
 藤原川の手前で川の状態を確認すると、土手の半ばの高さに漁船が上がっていた。
 河川敷や土手には瓦礫が散乱し、どこからこれだけのものが流れてきたのか不思議だ。
 一昨日は暗くて良く分からなかったが、やはり津波は来ていたのだ。
 この時の水面は通常の高さだったので安心した。
 泉方面への道路も、やはりあちこちの塀が崩れている。
 道路にはみ出ている分は脇に積み上げられていて自動車の通行は問題ないが、歩行者と自転車には問題なので出来るだけ脇道を利用して泉のヨークベニマル前を通った。
 こちらのヨークベニマルは店前で行列している。
 お陰でリカンベントが珍しいので物凄く目立ってしまった。
 そのまま泉駅の方へと移動、マルト泉店とくすりのマルトの営業を確認、JAは休み。
 常磐線は線路が歪んで地盤も駄目になっているので確認もする気は無かったが、物凄く小便に行きたくなったので、駅の一階のトイレにて小用を済ます。
 そう、外出で一番困ったのがトイレなのだ。
 いつもなら入れるトイレも水がなければ使用できない。
 ほとんどが水洗トイレなのだから、なにしろ最近までポットン便所だった勿来駅でさえも数ヶ月前に水洗式になっていた。
 あとは近くの食堂が最後のポットン便所だったはず。
 と云う訳であまり長時間、長距離の移動は現時点では無理なのだ。お腹が弱いので。
 そのまま泉駅近くの高速バスのバス停を確認しようとしていたのだが、少し考え事をしてしまい行き過ぎてしまった。
 少し戻ってバス停を見たが、張り紙は全面休止のお知らせだった。
 やっぱりかと思いつつ、掛かり付けの医者である佐々木内科クリニックに行き状況を確認、震災により休診と云う張り紙を確認した。
 睡眠時無呼吸症の対症治療としてシーパップと云うのを使用しているのだが、月に一回病院に行きレンタル料を治療費と云う事で払っているのだが、月に一回病院で料金を払わなければ保険が効かないので…どうなるのでしょうか。
 カワチ薬品泉店の前を通って、店内危険の為休店の張り紙を確認し、ヨークベニマル泉店へと向かった。
 西側の入り口は閉止されていて、山側の入り口にて販売と書かれていた。
 自転車を置いて列の最後尾へと並ぶ。
 隣に並んでいた小父さんに話しかけたら、元発電所の下請けをしていたとか云う事で興味深い話を色々聞けた。
 そんなこんなで2時間が経過、二〇メートル位動いた。滅茶苦茶動きが遅い。
 トイレは家を出る前に入念に済ましていたので腹の具合は問題なかったが、少々体調が不良になって来た様な気がした。
 並んでいる人達も普通の人であり、家族連れの人とかが多い。
 後ろの小母さんと孫娘さんの淡々としたしりとりが思ったより精神的ダメージと成ったのには驚いた。
 子供嫌いではなかったはずだが、余裕が無くなっているのだろうか。
 更に2時間が経過、かなり体調が不調になってきた、正直立っているのが辛い。
 前日から激しい余震に加え、津波の映像、福島第一原発の事故などで思ったよりも消耗していた様だった。
 しゃがみ込み、肩で息をしたりした。頭がジンジンとして舌が痺れる。
 パニックみたいな感じだろうか。
 店の人が折り畳みの椅子を貸してくれた、それに座っていると二〇分程で落ち着いてきたので店の人に返した。
 一時間程でようやく店の入り口が見えてきた。
 店の人の話でお一人様一品ずつとの事だった。
 後ろの列は既に最後尾にここまでしか売れないとなっており、品数が限られている以上より多くの人々に売る為には仕方がないと隣の小父さんと話題にした。
 外扉と内扉の間のスペースに台を起き、古いタイプのレジスターが二台で対応していた。
 購入したのは牛乳1リットル、玉子1パック、うどん一セット、レトルトご飯一セット、ミカンの缶詰一つ、お〜いお茶2リットル一つ、カロリーメイト固形小一つ、シリアルコーン一つ等である。
これだけの物資があれば私は一週間は余裕で生き残れる、後は水だな。
 昨日は給水場で絶望的な行列の前に敗退したが、小父さん情報で泉浄水場には蛇口の数も多く二四時間使えるとの事なので機を見て取りに行く事を考えた。
 家に帰ってトースト一枚とベーコンステーキの半切れ二つとコーンスープの残りを食べた。
 食事中に会社の上司が来て、津波注意報も解除になったと云う事で明日は出勤となった。
 トイレの水汲みに困っていると云うと、実家の井戸で飲めない水が使えるからと云う事で有り難く戴く事とした。
 リカンベントトレーラー付きに乗り、元職長の方の家にお邪魔する。
 庭の片隅に電気ポンプが設置されており、ホースが延びていた。
 ゴミ袋に水を汲み入れると、確かに少し臭うが問題はない。流せなくて詰まってしまったらお終いだ。一応一階にもトイレはあるが、上が詰まったら下にも影響はあるだろうし。
 お礼を言い、七〇キロ近い水を乗せた自転車を何とか漕ぎ出して行く。
 少しでも自転車を傾けたらそのまま転倒してしまいそうなので、出来るだけ直立を保ったままカーブを曲がりフラフラと自宅へ戻った。

 四日目 三月一四日月曜日
 七時起き。
 今日は会社でトイレが使えないので朝食は軽めにした。
 七時五〇分発、会社に行く。
 北門から入ると対策本部が建物の入り口に設置されていた。
 まずは点呼にて人員の確認。
 着替えの作業着は色々と危険なプラントの方にあり、余震で崩壊したら巻き込まれてしまうので複数人数で移動する事となった。
 頭上高く聳えるプラントの近くを通るのではなく、安全な倉庫の方から更衣室へと向かう。
 スレート張りの簡易な建屋なのだが、意外と破損箇所は見当たらなかった。
 所内は停電している為、奥まった所にある更衣室は真っ暗だった。
 扉近くの戸は建物が歪んでいて全く開かないので更にだ。
 幸いにしてTCBNさんが懐中電灯を持っていたので作業服の位置を確認して引っ張り出し、更衣室の外で着替えた。
 表からは見える位置にあるが、女性社員に覗かれる位置でもないので問題ない。
 着替えた後、着替えを紙袋に詰めて二階の制御室でこれから行う作業で使えるかもしれない物資を漁った。
 自分が個人的に持ってきていたティッシュペーパーとか、会社で使っている大きめのゴミ袋とか、マスクとか、その他色々だ。
 今日の仕事はいわき市江名の海岸に家を構えていて罹災したSKYMさん宅の片付けである。
 軽トラ二台、社用車一台で移動を開始。
 自分は免許を持っていないのでナビを担当。
 小名浜市街地を通るルートで行こうとした所、津波の被害は著しかった。
 自家用車が電柱にのし掛かり、道路は泥に塗れ、塀は流され金網が破れ、瓦礫が散乱していた。
 住民の方々が道路上から瓦礫を取り除き、家の片づけを行っている。
 そのままトンネルの方へと向かおうとしたが、停車していた消防車で道が塞がっていたので少しバックして右折、海岸通りに出た。
 ここで見たのは更に甚大な津波の被害だった。
 漁港の脇を通る時、乗り上げた漁船は確認出来なかったが、家屋の屋根より高い波が浚っていった痕が見えた。
 初日に見た映像では漁港の鉄筋コンクリートの建物の二階に迫る高さだったはず。
 大昔に鉄道が走っていたというトンネルを潜ると津波の痕はない様子だった。
 直ぐに右折し海岸沿いに走る道路は通行止めになっていた為、その次の交差点で右折する。
するとかなり奥まった所にまで津波に洗われた痕が見られた。
 どうやら小川があった為に津波がそこを遡ってきた様で被害が拡大したらしい、良く見ると川底に自動車があった。
 直ぐに海岸線に出たが門扉だけ残して更地になっている家があった。
 他にも家の形は残っているが窓や扉が全部破壊されている家は比較的多く見られた。全く被害を受けていない方が珍しい位だ。
 少し行くと消防団の消防車車庫があり、SKYMさんの息子がこの先で駐めてくれと指示があった。
 消防団の車庫の裏に消防車が津波で押し出されていた。
 排水溝の蓋が流されていたので道幅が狭く自動車を三台停める事が出来なかったので、流されていたコンクリの蓋を探し、拾ってきて自動車を止める場所を確保した。
 狭いながらも車を止めてからSKYMさん宅へ向かった。
 窪地になっている草地のその途中、地面に落ちている箱の中にベラが一匹生きていた。
 津波に乗って堤防を乗り越えた魚が三日間もこの狭い箱の中で生きていた事になる。
 後で時間が空いて海に問題なければ逃がしたいと思った。
 その家の一階は胸の上まで海水が来て、山側の方へ荷物が押しやられていた。
 取り敢えず無事だった二階の荷物を軽トラへ移送する作業を行った。
 そろそろ一息入れようかと云う一〇時位だったろうか、突然余震があった。
 ラジオに注目すると、今の余震はかなり大きめで津波の心配有るとの事で、今まで積み込んだ荷物を社宅に運ぶついでに避難する事になった。
 社宅に到着し、家財を空いている社宅に運び込む。
 共用室として使用されている社宅の一階にテレビがあり、現在の状況を放送していた。
 いわき市の消防車が立てるサイレンの音があちこちから響き渡っている。
 その内テレビから重大な情報が放送された、海上保安庁所属のヘリから津波を視認したという情報が流れたのだ、その後に避難警報が出た。
 いわき市のスピーカーやサイレンから警報が出る様子はなかった。 壊れてんのか? 元々無いのだ。
 工場の対策本部の方から慌ただしく連絡が来る。
 そうしていると上司の人が近所の鉄筋作りの会社に交渉して、その社屋の屋上に避難する事になった。
 屋上にはその会社の方が数人と飼い犬がいた、どっちかというと自分たちの人数の方が多い位だ。
 屋上から周囲を見ていると人影はほとんど無い。
 やはりここ数日流れている津波の映像の恐ろしさの影響だろう。
 遠くのメイン道路にはかなりの数の乗用車が走っているのが見えた。
 ラジオからは津波警報が出ています、海岸沿いの方は直ちに高い所へ避難してください、と繰り返し避難の呼びかけが行われている。
 今日の津波は大丈夫だろうか、どれ位の被害が出てしまうのだろうかと、ヤキモキしながら周囲の道路を見張る。
 この場所は自宅に近く、家と同じく海と川に挟まれた立地である。
 周囲どちらの方向から津波が襲ってきてもおかしくはない。
 そうしていると、不意に脇から自転車に乗った年輩の方がフラフラと道を進んで行った。
 危険だからこちらへ上がって来て下さいと皆で呼びかけるが、耳が遠いのか気づく様子はない。
 そのまま遠くへと行ってしまいそうだったので、上司の人がひとっ走り年輩の人の元へと駆けていった。
 しばらく話を続けているようだったが、上司の人だけ戻ってくる。
 話を聞くと、津波は来ない、来ても気にするな、的なことを云っていて、避難はする気はないとの事。
 この時期、結構こういう人は居た模様だ。
 暫くの間西の方角でサイレンが鳴り響き続けて居たが、その内に病院へ行っていたSKYMさんがこの避難場所へやって来た。
 漁港の方では消防の人から避難警報は解除されたと聞いたそうだ。
 どうやら色々と情報が錯綜している模様。
 そうしている間に落ち着いて来たので、上司の人が携帯で会社の対策本部へと連絡を取り社宅へと戻った。
 社宅で津波注意報が消えるまでの間、皆で昼食と云う事になった。
 SKYMさん他から差し入れがあり、お皿に一杯のおむすびと漬け物、そしてお茶だ。
 と言っても自分が食べられる量はおにぎり一個とお茶と漬け物だ。
 実際の所遠慮せず食べられるだけの量はあったのだが、腹の具合とか勘案してその程度に抑えて置いたのだ。
 正直云うと必要とするエネルギーは足りないのだが水が通っていない以上、どこのトイレも使えない。
 基本的に腹が弱く、トイレに行きたくなり易い人間としては非常に憂慮すべき事態である。
 トイレの心配さえなければ腹一杯食べたかった。
 気が弱くなり易いこの時期、体力まで無くなってはどうしようもないのだ。
 この時はセーブしようセーブしようと心掛けていたが、後になって考えてみると体力の落ちた時ほど沢山食べて、無理にでも食べて、せめて体力だけは温存したい、でなければ精神的なダメージがダイレクトに体に効くのだ。
 がっくり来ると体に症状が出てくる、手が震える、舌が痺れる、涙が出てくる、キツイ。
 食事を採りながらテレビを見ていたら福島第一原発3号機の建屋が爆発した。
 すんげえ怖い。
 これはアレか? 菅総理がいち早く現場視察に出かけた時に圧力放出バルブを開けられなかったとか云う奴の所為なのか?
 良く分からんがそうなら許せん。
 しばらくするとヘリが津波を視認したのは誤認だったと放送があった。
 まあ、畑違いの仕事をしていたのであれば仕方がないか。
 むしろ津波が有ってんのに気付かずに被害に遭うよりはマシだろう。
 津波の問題が無くなり、残りの片付けにSKYMさん宅へと再度向かった。
 今度は一階の家財道具の運び出しだ。
 ただほとんどの物が泥まみれなので大部分は廃棄するそうだ。
 そんな中、ただひとつ教訓を得た。
 『布団圧縮袋は津波に強い。』
 濁流に浸かった押し入れの中の布団だったが、密閉されていたので濡れずに済んだのだ。
 周りは砂混じりの水気に濡れていたが、中身には問題なかった。
 意外な効能に驚きの声が。
 あと台所も津波に襲われて使えない物が多いそうだが、無事な物をやると云われた。
 遠慮するが、使わないと勿体ないからと云う事で河豚雑炊の素を貰う。
 卵もあるし、冷凍庫の乾燥し切った冷凍ご飯を食べるには丁度良かったのだ。
 それから、午後に来た時には既に箱の中の取り残されていたベラは死んでいた。残念だ。
 夜間は報道番組、主にNHKを見ていた。
 同時に、固定回線が使用出来るようになったので、ニコニコ動画のNHKストリーム放送でコメントを見ていた。
 ひとりだと気が滅入るとですよ。
 これは生放送形式なので、今したコメントが直ぐにダイレクトに流れる。
 それで震源に近いいわき市で大きな揺れが有る度に「小名浜地震震度4位? 」とかコメントすると、「おお来た来た水戸」、「こっちも揺れた東京」とかコメントが流れるので面白かった、揺れが伝わって行くタイムラグもそうだが、コメントを見ているだけで寂しさが薄まるのだ。
 ひとりぼっちはさみしいの〜。

 五日目 三月一五日火曜日
 本日は会社は無し、八時頃目が覚める。
 昨日の夜は三時位まで原発の情報に変化が無かったので、眠ったのだが、朝起きたら少し状況に変化があった。
 悪化していた。
 原子力安全・保安院の会見をテレビで、気が滅入りながら、少し体調も悪くなりながら見ていた。
 朝食は以前半分使ったベーコン三枚と玉子を二つ使ってハムエッグを作り、食パンの最後の一枚をトーストし、昨日貰ったおにぎりの一つ(昆布)を食べた。
 正直言ってメチャクチャきつい、胃袋が縮こまっていて食欲もない。
 そのままセルフ拷問みたいにNHKで原発情報を見続けるときついので、途中で以前録り貯めていた「出没! アド街ック天国」を視聴したりした。
 NHKを画面だけ出していると、どうやら発表があるみたいだったので音声を切り替えてみた。
 午前一一時の政府会見で原発の現場で致死量レベルの放射能がまき散らされていて北北東の風がいわきに向かって吹いているとの情報である。
 今までは福島第一原発から二〇キロが避難区域であり、ぎりぎりいわき市には引っかかっていなかったのだが、追加で屋内待避として三〇キロ圏が設定された。いわき市の北部の一部が引っかかった。
 調べたらここは四〇〜五〇キロの範囲なので今はまだ大丈夫だが、状況が悪化して避難域になったらばどうやって逃げるべか。
 自動車に乗らない人間なのでこういう場合非常に困ってしまう。
 さて、生活の方だが、そろそろトイレの水が尽きそうだ。
 天気予報ではもうすぐいわきにも雨が降りそうだったのだ。
 放射能混じりの雨を浴びては被爆してしまう可能性が高いので、雨が降る前に会社の上司の実家に井戸水を貰いに行った。
 因みに、この職場に来た時の最初の職長の方が住んでいる所である。
 一応、玄関の方に回って挨拶してから井戸水を貰った。バケツ六杯分の水をビニール袋に入れて大きめのゴミ箱に入れてトレイラーに積んで自転車で帰った。
 後ろがやたらと重いので、バランスを取ってやれば直進は出来るのだが、曲がるのが非常に難しい。
 この井戸水は近くの化学工場から漏れた排水のような臭いがするが、トイレ用なので何の問題もない。
 とにかく持って帰ってトイレの前に置いて着替えた所で玄関からチャイムが響いた。
 出てみると会社の上司が来ていて、会社に本社から緊急支援物資が届いたから取りに来て貰いたいとの事だった。
 無論、有り難く頂戴する事にした。
 現在は三月一二日と一三日に購入した物資 がまだあるとは言え、いつまでこの状況が続くのか、しかも下手をしたら外出する事すら 憚れるような状況になるのかもしれない。
 そう考えると未来の見通しが立たない。
 正直、地震の被害だけでも頭が痛い問題なのだ。
 この上、放射能の事まで考えて行動はしたくないのが本音だ。
 勿論、昨日片付けに行ったいわき市江名の方のように津波に襲われて家を捨てねばならなくなった方達や家族を失った方達に比べれば仕事場が使えず自宅待機をするしか無く、水が出ない程度の自分は相当恵まれているのは自覚しているが、それだけでも自分には厳しいです。
 自分が弱い人間だなと感じるばかりだ。
 自転車に買い物用の保冷バッグを積んで会社の北門へ向かった。
 今日は非常に自動車の走る数が少ない。
 やはり原発の放射能漏れが影響しているのか。
 行く途中、いつも3勤の帰りに寄る立ち食いそば屋が開いていた。
 昨日、会社から江名に向かう際にも見たが、半径一〇キロ圏内でやっている唯一の飲食店では無かろうか。
 とにかく時間はないのでそのまま会社に向かう。
 相変わらず公園前の交差点の信号機は停止したままだった。
 周辺の交差点は問題ないのだから制御装置の問題だろうか?
 さて、液状化現象で砂だらけになった北門の門扉を開けて対策本部に顔を出す。
 少し前に女性社員の方が来ていたので、その後ろについて倉庫へと行く。
 数人が本社から届けられた物資を仕分けして、一人分ずつ袋に詰めていた。
 取り敢えず一つ貰い受付へと戻る。
 ちょうど上司の人が来ていたので挨拶して、今後の予定を確認するが、とにかく原発の方がどうしようもなく、水もなく、電気も厳しいと来ては工場の片付けもままならない。
 何しろいつ余震で崩落する箇所があるかも知れず、現場近くへ行くにも、受付へ連絡した後に最低二人連れで向かわなければならないのだ。
 ボイラーとタービンが稼働して、発電がどうにかならなければ、会社としてもどうしようもない状況である。
 礼を言ってから帰宅するが、行きに気になった立ち食いそば屋(屋号はないみたいだが、経営者の名前からヤマキと仮称している)に寄ってみた。
 片足がちょっと不自由な小父さんは、地震直後に避難した公園で会っていたが、それ以来の再会である。

「カレーしかないよ。カレーとおにぎり」

 って事でカレーライスを注文した。
 矢張り水がないと云う事でソバやうどんは出来ないとの事。

「スープもいる? はいどうぞ」

 とソバのかけ汁に刻み葱を小椀に入れて貰った。
 材料が少ないのか、挽肉のカレーである。
 だが、ご馳走だ。
 震災以降、保存食や水を使わない料理を緊張しながら食べていた。
 そんなだから腹は減っているが食欲自体余りなかった。
 濃厚なカレーを何とか飲み込んで行く。
 だが、全部食べられた。
 震災後摂った食事の中では最大の量となる。
 どれだけ胃が縮まっていたのかと云う感じだ。
 帰宅時に雨が降ったら自転車が被爆する可能性に気付いた。
 一階の和室に段ボールを敷いてGIANTの自転車を、玄関にも段ボールを敷いてリカンベントをトレーラー付きで引き込んだ。
 その後に三階建ての自宅の気密を確認、窓の確認をした。
 三階の洋室は本棚が崩れていた所為で道路側まで辿り着くのが非常に難しかったが、何とか手を伸ばして窓を閉止した。
 大きな揺れだと縦長の窓は勝手に開いてしまうのだ。震災後に閉めてはいたが、余震で少し開いていた。鍵も掛けて万全だ。
 戴いた食料はカップラーメンとみそ汁、レトルトご飯、後うれしい事に水が1リットル×六本もあった。
 ご飯が炊ける、食事の幅が広がるのだ。
 その後は今回の震災の文章を記している。
 一八時、夕食は昨日貰ったフグの雑炊の素と三ヶ月前に冷凍して置いたご飯を解凍して使用した。
 少し乾燥した感じだったが、じっくり煮込んで溶き卵を入れた。
 米を煮ると嵩が増えて満腹感を感じた。
 矢張りある程度食べないと精神的に落ち着かないのか、避難民の方の苦労が忍ばれます。
 見ていたテレビの天気予報の本日の気温から相馬と浪江のデーターがないのがとても悲しい。
  二二三一時、その少し前の時間帯に東北の方で大きめの余震が起こりニコニコ動画の方でコメントがたくさん流れたが、いきなり静岡県東部で震度六強の地震が発生した。
 直ぐに続けて東海地震でも起こったのかと思ったが、震源は浅く局地的な物だそうで、浜岡原子力発電所も問題なく運転し、火力発電所も問題なしとの事。
 これ以上発電所が止まったらどうしようもない。
 東名高速道路は一部通行止め、新幹線も停電で停止したらしい。

 六日目 三月一六日水曜日
 今日も仕事は無し。
 震災前の予定では今日は仙台に行く予定であったが、仙台どころか東京にも行く手立てがない。
 昨日ヤマキに来ていたタクシーの運ちゃんが話題にしていた様に、タクシーを使って水戸まで一般道で行くという手もありそうだが、料金はやたらと高く、第一予約が一杯で何時行けるかも分からない。
 本日は小名浜の港湾が使用再開になったとニュースでやっていたが、旅客扱いはないのでその線もない。
 しかし、去年大戦中に落とされた爆弾の不発弾が港で見つかって水中爆破処理を行ったが他にはなかったのだろうか、今回の地震で人知れず爆発とか大丈夫だったのだろうか。
 使用再開とはなったそうだが、港湾自体は沈船や瓦礫が浮いていて整備が大変なのだそうだ。
 さて、今日は放射能の降散とか色々と外に出るのが心配なのでずっと家の中でPCの前に座ってこの文章を書いていた。
 原発が断続的に放射線の量の単位がマイクロからミリシーベルトへと増加していたので、ニュースを見られない外での対応が心配だった。
 だが、番組を見ている間に少しずつ慣れて(麻痺して)きているのが分かるのは不思議な物だ。
 今日は天皇陛下がビデオで東北関東大震災の被災者にお言葉を発表した。
 見ていたら、何故か涙が出てきた。
 さて、震災後水道が止まっているので風呂に入らず六日目、頭が痒くなり始めた。
 自分の家の現在のライフラインは、電気OK、ガスは一月にオール電化にしたので不明、水道NG。
 外は寒いが、中は若干隙間風が入っている…気密が悪いのか? しかしそれほど寒くない。
 使用している暖房は電気アンカと膝掛け毛布に半纏で充分暖かく感じる。
 早く風呂に入りたい。
 今日の食事。
 朝食は二日目に買った挽肉が色が変わり始めていたので三分の一をゴマ油で炒めてモヤシを加えて麻婆モヤシの素を少し使った物、納豆一つ、去年の鏡餅を電子レンジで温めた物。
 昼食は特になし、かーさんケット一四枚とカフェオーレ五〇〇ミリリットル、コカコーラ一杯、チョコパイ三つ。
 夕食は震災後初めて炊いたご飯一杯と納豆一つ、冷凍していた鯖の干物、モヤシと若布のみそ汁にヨード対策でとろろ昆布を入れた物。
 今一番食べたいのは麺を茹でるのに大量の水がなければ作れないラーメンである。

 七日目 三月一七日木曜日
 八時四五分目が覚めた。
 朝食はご飯と納豆とモヤシのみそ汁+とろろ昆布。
 携帯電話に昨日の内に着信が四件ばかり有ったのに気付かなかったので九時過ぎに返信して確認してみた。
 九時四八分から自衛隊がヘリを使って福島第一原発3号機に放水を開始した。
 合計四回、NHKで撮影した映像が迫力有った。
 実に勇気の必要な行動であると思う。
 只でさえ真下の施設から致死量の放射能が巻き散らかされているというのに、近付き過ぎればその施設接触墜落してしまう可能性すら有るのだ。
 そうなれば誰も助けに行けない。大変に恐れ入ります。
 昼過ぎに家を出て、近くの弁当屋の前の自販機でロイヤルミルクティーを買う。
 その足で隣に住むお爺さん、隣組の班長さんに顔を出す。
 近況の話を聞くと、近所の人も避難所に避難した人などもいるらしい。
 家に戻って、散らかっていたテレビの前を片付ける。ついでにその他も片付ける。
 仕舞っていた保存食を見つけた。
 以前結構買っていたのだ、こんな事もあろうかと思って。
 しかし、ここまでとは思わなかった。電気が来ているだけマシだけどね。
 見つかった物は缶入りグリコが一つ、乾パン一缶、缶入りリッツ一つ、コーンポタージュ一〇杯分袋入り。
 ロイヤルミルクティーを啜りながらビスケットの残りを食べた。
 しけり始めていたグリコのキャラメルを二〜三粒食べながら読み残していた『クリスティ・ハイテンション六巻』を読む。
 その後にBDデッキで『きらめき☆プロジェクト』の3〜5巻を見る。
 途中で会社の上司Kさんから本社からの支援物資が社宅に届いている事を聞き徒歩で受け取りに行った。
 そこでレトルトご飯を二つと救缶鳥と云う缶入りパンを三つ貰った。有り難いことです。
 十八時過ぎに夕食。
 震災前に小名浜漁港近くにある生鮮魚介類販売のサスイチ(被災し廃業、後輩の母親が勤めていた)にて購入した金目鯛の一夜干しを焼いて半分は冷蔵庫で保管、それにモヤシ入りのおじやを作って食べた。
 そう言えば、妹がツイッターに入れば連絡が着かない時でも連絡が着きやすいから入っといてと言っていたので、入ってみた。
 しかし、この前の様にアンテナも立たずに、固定電話は反応しないと云った状況では使えない事に違いはない。但し短文なのでデーター量が少なく、一瞬の通信で事足りるという事だろう。
 ホームページに今まで書いた日記の初日から四日目までアップロード実施。
 NHKの報道番組を見て情報収集していた所、妹から電話。
 ツイッターについて連絡と、いわき市発東京行きの高速バスについて連絡有り。
 その後は午前三時位までテレビ報道のチェックをして寝た。

 八日目 三月十八日金曜日 丸一週間経過
 本日も自宅待機。
 福島第一原発からの放射能漏れが収まらず、いわき市に物資を運ぶトラックの運ちゃんがビビって物資不足である、といわき市の市長さんが言っていた。
 今日はそこを確認したい。
 朝食はカレーうどんである。レトルトのカレーうどんの素を暖めて、そのお湯でうどんの麺をゆでた。
 うどん一玉にレトルトカレーうどんの汁は半分使用。
 テレビを見ていたら消防隊の消防車がいわき市に集結との事。
 したら、スピーカーを積んだ市の街宣車が支所で〜ヨードの〜とだけ聞こえた。
 正直、街宣車のスピードが速すぎて文章を聞き終わる前に通り過ぎてしまったのだ。聞かせる気があるのかと疑問に思うほどである。
 単語から類推するに、放射同位体のヨードを体に取り込まない様にする飲み薬を小名浜支所にて配布するので取りに来てくれと云ってる物と推測された。
 体が鈍ってしょうがないので伴奏なしでラジオ体操を実行。
 実はラヂオ体操第一のCDも持っているのだが、探すのが面倒だった。
 その後、この家を買った時にソーラーパネルを設置して貰った会社から電話が入った。
 取り敢えず無事を連絡、ソーラーパネルも無事稼働している事を告げた所で玄関から来客の合図が聞こえた。
 来客の旨を告げて電話を切り、玄関に向かう。
 少し遅れて玄関を開けると上司の人が台車に飲料水三本と食料品を段ボール箱に入れて運んで来てくれていた。
 これだけ水があれば少なくとも一週間以上は普通に飲み物に困る事はないので大助かりである。感謝感謝。
 話を聞くと昨日は東京に出ていたと言う事で、東京の現状を聞いてみた。
 コンビニやスーパーなどでは保存食やパン類が絶滅しており、普通の鮮製品は売っていて変な感じだったのと事。
 今日は会社からの支給品とプラス東京土産的な感じでイチゴを一パックとミカンを一袋、その他ソーセージとか冷凍ブロッコリーを戴いた。
 早速イチゴを戴く事にした。
 軽く水洗いして、久し振りに食べる新鮮なイチゴは非常に美味しい。
 ワンパック完食した。
 昼食はそれで終い。
 本日はこの三日間ずっと家の中に居ておかしくなってしまいそうだったのと、支所でのヨード剤?の配布に行く事にした。
 オレンヂ色のタートルネックにジーパン、ジャケットと会社用のコート、手袋にマスク、そしてハンチングハットを装備。
 テレビでいわき市の放射線量1.26マイクロシーベルトを確認し、特濃でない事を確認して外出を決意する。
 しかし、昔のSF漫画や実写版ヤマトの様に外気の放射能濃度を気にして外出を考える様な事態になるとは思いも寄らなかった。
 一階の和室にしまったGIANTの自転車を庭に出してそれに乗り込む。
 進路を東に、支所方面へ向かう。
 消防署の前を通ると、はしご車から何から様々な種類の消防車がスタンバっていた。
 小名浜二小の横を通った時に地面が砂混じりになっていたので、ここら辺まで津波は来ていたらしい。
 支所の近くまで来ると行列が見えた。
 支所の玄関前に駐輪して六〇メートル程の行列の最後尾に着く。
 そこでヨード剤の配布についての注意書きが手渡されたのだが、四〇歳以上はリスクが回避されているからとの事だったので列から離れた。
 うむ、就職してから二十一年、定年まで十九年、いい歳こいて…未だ独り身です。
 それはさて置き、今の街の様子を見たかったので鹿島街道をいわき南警察署の手前まで行き、折り返して海の方角へ向かった。
 ジョイフル山新とカインズホームは閉店、マルト小名浜店も閉店、ユニクロ小名浜店も閉店、その他も閉店、開いてる店は一軒も無かった。
 そして支所の手前で左に折れ小名浜漁港方向へと向かった。
 タウンモールリスポの横を通り閉店を確認。
 東邦銀行小名浜支店へ行き、ATMにて現金を引き出した。
 正直現金を使う事があるか分からないが、いざという時に困らない様にとの考えである。
 桜通りを海側へ折れ、アクアマリン方向へ向かうと、自動車が流され電信柱にもたれ掛かり、JR貨物のコンテナが道路上に散乱した直接津波の被害を被った地域に入った。デジカメに撮る。
 地面は砂と瓦礫とゴミに覆われており、正直タイヤがパンクしないか心配な程だ。
 余り海の方には行かない様に、海岸通りへは出なかった。
 ちょくちょく行っていたアクアマリンや美食ホテル、ララミュウの様子も心配だったが仕方がない。
 小名浜斎場の横を通って、ラーメン輝の手前までJR貨物のコンテナが流れて来ていた。
 そこから交差点迄の道路は砂がうっすら積もっている事からここまで津波がやってきていた様だ。
 オープン直前で被災した「鮮場」の前を通ってヨークベニマル小名浜店の前を通る。
 やはり物資が届いていないと言う事なのだろうか、完全に休業状態である。
 小名浜公民館の横の道路は舗装工事が終了したばかりだったのだが、地震でマンホールが押し上げられアスファルトに亀裂が入っていた。
 大原街道から山側へと向かい、K’s電気の所の交差点を左折、藤原川をヨークベニマル岡小名店へと向かう、橋を渡って対岸を川上へと向かい、野球場の前を通った所、犬を連れた男性がいた。
 帽子とマスクで誰だか分からなかったが、声が聞こえたので寄ってみると、以前定年退職した会社の先輩だった。
 現状とか話し合ってお互い頑張ろうと誓い合う。
 米問屋の前を通った所、三月二十二日に営業再開という張り紙が出ていた。
 売っていれば残り少ないお米を補給出来たのだが。
 WonderGooの前を通って藤原川の下流へと向かう。
 そのまま鉄道橋の前で左折、用水路の水は少し少なめの様な感じがした。川底を潜る構造なので、少し漏れているのかもとか考えた。
 家に帰る前にパチンコ屋の自販機が人の寄らない穴場だったので、ATMで引き出した一千円札でホットココアを購入。
 帰宅し夕食の準備、通販で購入した香り米を炊く。
 冷凍庫の中の冷凍パプリカと冷凍ジャガイモ、冷凍ブロッコリー、それとソーセージを深フライパンで煮た。
 取り敢えず煮えた所で加熱を停止し、ご飯が炊けた後にカレー粉を足す事にした。
 ご飯が炊ける迄の間空きっ腹で待っていたのだが、香り米の臭いがきつくて頭が痛くなった。
 嫌いじゃないのだが、この空きっ腹にはきつい。 以後香り米が苦手になってしまった。
 夕食後、東京の家族から電話有り、自動車で休日中に迎えに来るとの事。
 ここでいわき市から離れると負けた様な気になるが、実際、いわき市小名浜市街に物資が入らず食糧が尽きたら自動車という移動手段のない俺は絶体絶命のピンチである。
 只でさえガソリンの供給不足によって満足に移動出来ない自家用車が増えているというのに。

 3月19日
 日記を記していなかったので詳しい事は忘れたが、家族から明日迎えに行くと連絡があった筈。
 いち社会人であり会社に勤める人間として無許可で長期出社出来ない状況は容認出来ないので、会社に行き上司の人に相談してみた。
 結果、どのみち自宅待機が続くので、連絡があるまでは避難も止むなしとの事。
 プラス隣のお爺さんに避難する旨を連絡。
 その際に未だに隣組の上位組織である町内会から連絡が無いことに憤っていた。
 自分もいつ安否の確認に来るのか、何時連絡があっても大丈夫なように心掛けていたので、この対応には首を傾げてしまった。
 やはり自分勝手(個性豊か)な性格なのだろうか、いや自分の身の回りの事に手一杯で町会長としての仕事に手が回らないだけ・・・ダメじゃん。


 翌日、家族が迎えに来て家を離れたのでこの日記をつける事が出来なかった。
 よってダイジェストを記す。
 そんなに急がなくても良い、と家族には言ったのだが、心配でどうにも堪らないから絶対に迎えに行くとの事。日時は三月二十日(日)。
 確かに日に日に状況は悪化して来ていた。
 物資の不足、水の確保、放射能汚染、どれを取っても深刻すぎる問題だ。
 漸く開通なった常磐道は水戸インターまでは来れるとの事。
 長期間自宅から離れるので色々と準備を進めた。
 色々と溜め込んだ支援物資を未だに一人暮らしで耐えているお隣の隣組組長さんに譲渡し、必ず帰って来ますと誓った。
 また、いわき市を離れる前に津波の被害がどれだけ酷かったのか、心に刻みにアクアマリンとララミュウ周辺に足を運んだ。
 写真や映像で見るよりも酷い物だった。
 引き潮であらゆる物が浚われていった。
 道路の隙間から砂が持ち去られ深い溝が出来ている所もあれば土台毎川に流された家、車は玩具の様に固まり、自分の身長に匹敵する高さまでが海になっていた。
 アクアマリンの前にある交差点を挟んだ公園には白鳥の像が2〜3体ばかり噴水に飾ってあったのだが、一体を除き流されていた。
 周辺を探したのだが欠片もその姿は見当たらなかった。
 高速バスの停留所はフェンス毎押し流されており、流れて来た自動車の溜まり場になっていた。
 鉄道の踏切も鉄道のコンテナが積み木の様に散乱し、自動車がばら撒かれた様に転がっている。
 海岸通りの広い産業道路の半ば迄太い鋼管を乗せた台船が打ち上げられ道路を塞いでいた。
 工場の塀は自分の顔の辺りまで津波が上がり、崩れていた。
 結局津波は海岸線から三〇〇〜四〇〇メートル程まで押し寄せていた様だ。
 自分の家が約一〇〇〇メートル程の位置にあるが、後ろに藤原川が流れており、しかもその堤防の一番脆そうな箇所である。
 もう一寸だけ津波が高ければ前と後ろから押し寄せた津波によって何もかも流されていたに違いない。
 恐ろしい事である。
 さて、この頃から問題になったのがガソリンの不足だ。
 精油所が地震によって壊滅的な被害を受けた事、輸送経路の道路が壊滅的な被害を受けた事、鉄道網の壊滅的な被害、高速道路等の主要幹線が緊急車両専用となった為、輸送物資を運ぶ為の車両も自治体の許可を貰う必要があり、自衛隊や警察、消防の車両がスムーズに現地へ向かう事が出来るのは良いのだが、現地に物資が届けられないのだ。
 また、原子炉からばら撒かれている放射性物質に対する危機感もありトラックの輸送が成り立たない。
 よって、関東から北のガソリンスタンドは何処もガソリン待ちの自動車が列を作り、しかも入荷が未定であった為に無人の自動車の列が何処までも続くと言った光景が何処ででも見られた。
 その為、家族も自家用車に乗って東京都府中市から福島県いわき市まで往復する事が出来るか不安だったとの事。
 何しろ見た目からしてポンコツなのだもの、仕方がない。
 よって、近所の、ではなく立川にあったガソリンスタンドの経営するレンタカーにていわきまでやって来たのだ。
 ガソリンスタンドが経営するだけあって普通ならば補給する事が困難なガソリンを満タンにして貰い、しかも燃費がよいレンタカーだったので往復して尚余る程であった。
 実際は水戸インターで常磐自動車道に乗った後、最初のサービスエリアのガソリンスタンドに一時間並んでガソリンを補給したのだが、お陰で本日中に返還する筈だったレンタカーを延長する羽目になったのだ。
 しかも、次のサービスエリアのガソリンスタンドは超ガラガラである。泣けるぜ。
 因みに自宅から府中迄の帰路は水戸まで一般道を走行しなければならなかった。
 しかもほとんどが海岸線寄りである。
 バイパスを南へと走り、火力発電所の近くの橋を渡った。
 ここはニコニコ動画で河口付近の津波の動画がアップされていた所だ。
 海岸線近くの橋の下まで津波が上がり、河川敷は津波に呑まれていた、実際に見ると、確かに夥しい残骸が散乱している。
 勿来から海岸線の近くを通る事になったが、道路の両側の家々は津波によって崩れていた。
 その光景が暫く続く、常磐線の線路内に普通列車が停車していた、ガソリンスタンドは何処も一〇キロ近く続く列を成していた、日立の近くまで行き、漸くコンビニが開いていた、トイレに行きたかったので寄って貰った。
 水が来ていないのでトイレは使えないとの事であった、ピンチである。
 しばらく行った所のコンビニはOKだった。
 日立を超え、水戸の近くまで来ると飲食店が営業していた、夢の様な光景である。
 平和と水はタダではないのだと実感する。
 水戸インターから常磐道へと入る。
 路面の状態は良好とは言えなかった、全体的に凸凹があり、タイヤが跳ねる。
 アスファルト全体に罅があり、赤いポールが立っている所もそこかしこに見られる。
 既に暗闇に包まれた自動車道であるが、電力削減の為に着いていない街灯が多かった。
 そう、東京電力の計画停電があったそうだ。
 何処のコンビニも看板の明かりを消し、町は動いてる筈なのに薄暗く、三〇年前に戻ってしまったかの様である。
 さて、そうしている内に東京は府中市に到着した。
 さて、ここで会ったのが妹の婚約者であるTGC君である。
 結婚するとか聞いてなかったのでビックリだ。
 そう言えば弟の結婚式も1週間前に本人から連絡があるまで俺知らなかったんだけど、おっかさん……。
 車の中の話で3月11日には京都に行っていたので地震には全然気が付かなかった、との事であったがその目的は京都で結婚の事前準備みたいな事をしていたとの事。
 原発爆発後は八ヶ岳の別荘に避難していた事等を教えられた。
 調布インターで降りた後、稲城にあるスーパー銭湯へと連れてきて貰った。
 最後に風呂に入ってから約十日が過ぎており、体を拭いてはいたが色々と限界に近かった。
 家ではテルマエロマエを読み返しては風呂に入る事に焦がれていた。
 温かいお風呂は最高である。気持ちがいい。
 たっぷりと垢を落として汗を掻き、実家に厄介になった。
 約3週間程実家の世話になる事となった。
 17バイシクルの超小径折り畳み自転車を持って来ていたので近所の散策はそれで行ったが、正直速歩よりも遅い。
 で、今回の災害が早く治まるようにと色々と出掛けて震災復興を祈念し、犠牲者の方の冥福を祈り、自分が無事だった事を感謝して回った。
 行った先は大國魂神社と府中市内、明治神宮と原宿周辺、谷保天満宮と国立市市内、高尾山参拝登山と周辺、高幡不動尊と周辺、神田神社と秋葉原周辺、浅草寺と周辺、神にも縋りたい心境だった。
 国立の市内散策は中々興味深い物を発見出来た。
 小学校の頃まで国立に住んでいたし、高校の頃には登下校の際に大学通りを通行していたから馴染み深い所ではあるのだが、何分二十年以上前の事であるので色々と変わっている場所が多く、その象徴が国立駅であろう。
 木造で大学通りの正面に経っていた非対称構造の駅舎は今はなく、無味乾燥な何処にでも有る物が置かれてある。
 アレがなければ国立じゃないよと言う意見も多数あり、予算に四苦八苦している市長も駅舎の再建を公約に掲げている以上無かった事には出来ないので、どうするのか興味津々だ。
 その大学通りに本屋があり、昔からここで色々な本を買った、中には同人誌で購入した事のある「龍騎兵」が新書で売っていて目を疑った事もあった。
 今回は国立の未成線についての本が見つかった。
 どのような物があったかというと、大学通りのロータリーから延びて府中駅に接続する予定だった京王線の支線(当時の京王線は路面電車的な物であった)。
 国分寺駅から多磨蘭坂を経由し旭通りから富士見通りを通り建設予定だった音楽村に伸びていた路面電車。
 立川駅から中央線に平行に伸び国立駅から大きく湾曲し京王線と中央線の中間を走る予定だった西武鉄道。
 国立駅の北から多摩湖に延びていた西武鉄道の支線等が計画だけはされていたらしい。
 国分寺から多摩湖に延びている実在する路線と併せて環状線にする予定だったそうである。
 そうなれば今頃はJRと西武線と京王線の集うターミナル駅になっていた可能性も。
 その他、関東大震災後の建設ラッシュで川砂が必要となった時期に建設が多数計画された物の一つに立川バスの事業所がある多摩川河畔から富士見通りを経由し中央線に接続する? 砂利運搬用の路線も計画だけはされていた。
 それらの内で実際に通ったのは一番遅くに計画された南武線だけだったが、もしこれらが実際に走っていたらと思うと色々想像が刺激されて面白い。
 Nゲージで再現するか、スーパーSF大戦で書いてみるか、さて。
 そうこうして4月8日にいわき市に戻った。
 母親はいわき市に2〜3日滞在してから府中市に戻ると予定していた。
 会社に出社し、社内の片付けや雑用をこなす。
 そして震災から1ヶ月、激しい余震も大分治まってきたし、これからは復興に向けて「がんばっぺ いわき」とのスローガンも挙がっていたいわき市で震災のあった時刻、会社で黙祷した。
 家に帰ると母親は今日帰宅するとの事だったが、食事を取ってからと言う事で夕飯を作っていたその時、震度5の地震が襲った。
 正直、三月十一日(金)の地震よりも弱く、短かったが激しい地震だった。
 余震の所為で冷静になれた自分と違って、三月十一日当時に京都にいた母親は初めての大地震に驚き、食器が落ちてくる可能性の高い台所へと包丁を持ったままふらふら近寄ろうとしていた。
 急いで声を掛けて羽交い締めにして押さえたが、パニックになっているらしく、非常に危ない。
 母を安全な場所に座らせて色々と対応策を取る。
 停電しているらしく、外の信号機もダウンしていた、水道も見る見る水圧が下がってきていた。
 しかも風呂掃除をしている最中だったのでトイレ用の水がない、急いで風呂に水を貯めるべく、風呂場に行き蛇口をひねるとエコキュートのタンクからお湯が出てきたので貯めておく。
 電気は配電盤を確認したが、停電しているらしく反応しない。
 表に出てご近所周りをすると、お隣さんは夕食の調理後であり、食器棚が倒れてきたが危うく難を逃れたとの事。明日辺りに金具で固定する筈だったのだが、と苦笑していた。
 停電で困っているだろうと、蝋燭を戴いた。
 秋葉原で買ってきたラジオが早速役に立ってしまった、スイッチを入れて情報を得る事にした。
 余震の規模は大きく、停電が起こっている事、ライフラインへの影響が大きい事、高速道路が閉鎖された事などが確認出来た。
 母親は、仕方がないので本日は一泊して明日帰ると云う事に、お隣さんに貰った蝋燭をつけて過ごし二一時に就寝。
 余震による地響きが五月蠅く、地盤が崩れる様な破壊音まで聞こえる、正直怖い物だ。
 翌朝、停電と断水は続いていた、食料の備蓄もほとんど無く生活の困難が予想された。
 電話も通じない為、会社に出社、当面の間自宅待機との決定に上司の人に大体1週間、府中へと避難しようかと思うと告げると了解と言いメモしていたので、家に帰り母親と共に自動車に乗り込む。
 湯本インターへと向かうが、閉鎖されていた。
 この時は知らなかったが、地震で勿来・湯本間の崖が崩れて路面を塞いでいたのだ。
 勿来インターは通れるとの事だったので、一般道を移動し、勿来から常磐道へと乗った。
 途中のサービスエリアで軽食とトイレ休憩&お土産を買っていた所またもや余震が。
 テレビも緊急通報を流し始めた。
 相当大きな地震だった。後日に聞いた所によると前日の地震よりも大きく揺れたそうだ。
 このままでは高速が閉鎖されてしまう可能性があるので、急いで東京へと向かう。
 カーラジオによると直ぐ後ろのインターが閉鎖になったとの事であった。
 僅か3日程でUターンのUターンである。
 四月十三日に御嶽山に行き十四日に鎌倉、十五日に柴又帝釈天とお参りした。
 今回の府中への移動でダニにやられたのか体中が痒くなり堪らなかった。
 そこで、御嶽山の帰りにスーパー銭湯に入ったら大分和らいだので、鎌倉では江ノ島で炭酸泉に入ったが思ったよりも効果が薄く、柴又帝釈天の帰りに府中の縄文の湯に入った所、塩化ナトリウム泉で死ぬ程染みた。
 正直温泉に入った事を後悔した程だ。
 これに匹敵するのは、極楽湯で垢擦りした後に塩揉みして貰った時の事か、帆立クラゲの群れの中に突入してしまった時以来だ。
 莫迦だよね。
 さて、無事帰宅した後は会社の勤務形態が変更された。
 何しろ工場が動かないのだから仕事のしようがない、土日は休み、雨が降ったら放射能が怖いので自宅待機、3交代の組は順繰りで自宅待機の為に月曜から金曜の1/2が出勤である。
 仕事は工場内の片付けや清掃作業である。
 そんなこんなで5月は無事に過ごせた、かに思われたが五月下旬に転勤の辞令が出た、2週間後には兵庫県赤穂市の会社に出勤しなくてはならないのだ。
 住む所も決まっておらず、余震で自宅の片付けも進んでいないというのに。
 とにかく色々と準備を進めるしかなかったので、病院に行ったり、自転車屋に行って補修をしたり、隣組の組長になったばかりだったので町長さんの所へ前組長にもう一年やって貰う事にした事等の事情を説明したり、各種契約の住所変更や電話の引っ越し手続き等多忙を極めたが、とにかく現地で住む所が決まっていなかったので二泊三日で赤穂へ行く事になった。
 取り敢えず遠出に慣れていなかった会社の後輩を連れての移動となった。
 変わった事はしないで普通に常磐線スーパーひたちで泉駅から上野駅に乗車し東京駅から新幹線のぞみで新大阪駅でひかりに乗り換えて相生駅で赤穂線の普通列車に乗り換えて播州赤穂駅へ、九時出発十六時過ぎ着である。
 その日はそのままホテルに宿泊、誕生日だったので近くの洋菓子店でケーキを買って食べた。
 赤穂工場の事務所に行き簡単な工場の説明を受けた後、不動産屋に行き事前に連絡してピックアップされていた物件を回った。
 で、山の近くの静かに物件にした。後ろが林で涼しい環境です。お墓とかもあるけどね。
 色々手続きして次の日は即行帰った。
 とにかく引っ越しの準備が、時間がないのだ。
 なんやかんやで初出勤日を伸ばして貰い、準備を進めた。
 引っ越し屋が来て必要最低限の物、洗濯乾燥機と冷蔵庫と冷凍庫、テレビとPC、衣類等を持って行った。
 ある程度残しておかないといわきに短期間戻った時に困ってしまうので、ある程度は赤穂で購入せねばならないのだ。
 で、その日の内に出発、今回は奇を衒って東京駅からサンライズ出雲にて移動した。
 のびのびシートを利用したので安く済んだが、あくまでもシートなので寝づらい。
 朝早くに駅に着き、普通列車にて移動した、播州赤穂駅には九時頃到着。
 駅の近くにある市役所にカートを引っ張りながら移動して転入手続きを済ます。
 偶々新人さんも来ていた、挨拶をして分かれる。
 お互いに借りた家は結構離れた場所にあるのだ。
 駅前のエイブルにて鍵を渡して貰い、駅前のレンタルサイクルを二日間借りた。
 カートを引っ張りながらこれから住む事になるアパートに移動、鍵を開けて家に入った。
 だが、寝具も家具も何もないので今晩はホテルに泊まる事になる。
 午後にプロパンガスとNTT西日本に来て貰った。
 プロパンガスは問題なかったのだが、NTT西日本の方が問題だった。
 工事の業者が忙しく一〜二ヶ月掛かるというのだ。
 仕方がないので待つ事にした、結局九月まで工事を待つ羽目になった。三ヶ月ですよ、長過ぎる。
 隣近所に挨拶回りをして回った。
 やはり近所に急に越してきた得体の知れない人物では困る、すくなくとも顔は知って置いて貰いたいし、トラブルの回避にもなるからだ。
 土曜日に引っ越し荷物を受け取り、生活を開始した。
 正直仕事は忙しいし、肉体を酷使する職場なので身体のあちこちが軋みを上げているが、何、震災から受けてきたストレスに比べれば軽い軽い。仕事が出来て生活が出来る、これ以上嬉しい事はない。
 トイレの水だって問題なく出てくるのだから。
 だが、引っ越してそうそう異常気象で灼熱の気温になったのは困った。赤穂はこんな気候なのかと勘違いしてしまいそうになった。
 七月に入って、それまでで赤穂の地理を大体理解してから土曜日になると近隣に出掛ける様にした。
 七月二日は最初に来た時にお城が、或る意味目立っていた姫路にした。
 新快速に乗って播州赤穂駅から姫路駅に着く。駅周辺を歩き回って、大通りを姫路城へ進む。世界遺産に指定されているだけ有って外国人観光客の姿が多かった。
 七月九日は岡山に向かった。
 ここは駅前にビッグカメラの店舗があったので、色々足りない電化製品を購入し、電子書籍を見て回った。
 七月十六日は神戸観光、三ノ宮で降りてポートタワーまで歩いて回った。
 観光船で港内観光、そう言えば一月に行った松島の観光船はどうなっただろうか。
 ポートタワーの喫茶店でクラッシュコーヒーゼリーを食べる。
 七月二十三日は大阪観光、阪堺電軌上町線で住吉大社に参拝した。楠君神社でグレープフルーツを一個貰った。
 日本橋の電気街を散策する。
 七月三十日も大阪観光。
 天王寺から新世界を歩き、御堂筋線で日本橋電気街に移動する。地図で見たらそのまま歩いて移動も出来そうな距離だった。わざわざお金を掛けて遠回りしてしまうとは。
 八月六日は宝塚観光、といっても歌劇団が目当てではなく、手塚治虫記念館である。
 開催されていたOsamu moet mosoを見に行った。
 交通手段は三ノ宮から阪急線で向かった。以前京都旅行に向かった時以来の阪急線である。
 八月十三日はコミケで関東に来ていた、勿論本命はいわき市に帰省し家の片付けだが、府中に顔出ししていたので向こうには三日間いたことになる。
 八月二十日は、本日である。雨も降っているし、部屋の片付けだな、うむ。


 大体4年近く赤穂に住んでいました。






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