作者: アイングラッド

ダルグニィの日記

  新世紀2年10月5日 晴れ
 題名 【国立見聞録】
 新世紀二年一〇月五日、自分の住んでいる福島県いわき市からここ、東京都へとやって来ていた。
 生まれは一九六〇年代末、立川病院にて。
 その後に千葉に住んだ事もあると親から聞いた事があるが、自分の最初の記憶が国立市にあった平屋一戸建てでぽっとん便所に木製の風呂桶の隙間風も吹く都営住宅の一室で、新幹線の玩具のレールの真ん中でグルグル回るのを見て喜んでいた物であるから、ここが一番最初の土地としても良いだろう。
 歩行器に座って居たしまだベビーベッドに寝ていたから弟が産まれる前の筈なので一歳の時の記憶だと思われる。
 さて、常磐線の特急列車スーパーひたちに乗って上野駅に降りた俺は山手線の外回りに乗り、秋葉原駅で乗り換えて総武線へ、今日はまだ此処では降りません。
 次の御茶ノ水駅のホームの反対側で中央線を待つ、やって来たオレンジ色の中央特快に乗り新宿駅で降車した。
 ただ、今の新宿は何かと物騒なので足早に京王線へと急ぐ。
 特急電車が来ていたので乗り込むと座席は埋まっていたので吊革に掴まって立ちん坊だ。
 車窓から見える景色は慣れ親しんだ物と比べるとかなり変化していた。
 具体的に何処がどう変わっているとかは言えないが、あんな煙突立ってたっけ? とか、こんなスタジアム有ったんだ、とか。
 少しばかり経って府中駅に到着。
 さて、ここからが今回の目的だ。
 俺の住んでいた世界の府中駅は一九一六年から一九二七年迄の終点であり、そこから先は玉南電気鉄道と云う別の鉄道だったのだ。
 軌道幅が狭軌の規格で作られていた玉南電気鉄道を改軌の上で合併されて京王八王子駅まで繋がったのだが、一九二七年に開発が盛んだった国立へと繋がる国立支線が特許され、そのまま免許失効となった。
 以上ここまで資料本とウィキで詳しく調べてみました。
 だが、この世界に出現した京王線には国立支線があったのだ。
 是非とも乗ってみたい、そして中央線、西武立川線(立川ー新宿)、西武国立線(国立ー多摩湖)、京王国立線(国立ー府中)、国立市電旭富士見通り循環線、国立市電大学通り循環線が接続するターミナル駅と化した国立駅を見てみたいのだ。
 結局、俺の世界の国立駅に繋がる鉄道は中央線しかなかったから、どんな状況になっているのか想像も出来ない。
 国立市は文教区であり、多数の学校が存在する事から京王国立線を京王線沿線の学生達が朝夕に使用する。
 だが、昼間は利用量が減る為、ダイヤ本数は少ない。
 降りた府中駅の島型ホームの反対側の一番線で待つ。
 一〇分程待つ事になったが、その間に時刻表の下に掲示されている駅を確認して置いた。
 府中駅、京王西府駅、富士見台団地駅、京王国立駅の四つの駅が確認出来た。
 中学生の頃からは府中の西府近辺で生活していたので、どんな変化があるのか非常に興味深い。
 そのままホームで電車を待っていると緑色の電車が北野方面からやってきた、これはっ! 俺が小さい頃に乗った覚えのある二〇〇〇系じゃないか。
 ドアが開き少ない乗客が降りるとアナウンスが流れて来た。
「そのまま折り返し運転になりますので、乗車してしばらくお待ち下さい」
 との事だったので早速乗ってみた。
 むむ、ロング座席に張られているのはビロード地で紫色の、やや色褪せているが、この手触りは小さい頃に触った物に間違いない。
 着席して待つ事しばし、チャイムが鳴ってドアが閉まると電車は動き出した。聞こえてくるモーター音も懐かしい、が、流石にカルダン駆動式である。
 高架から徐々に下って行き大きく左にカーブして分倍河原駅に行くと京王線の本線だが、その直前に右に分岐した支線が見えた。
 些か大きな振動と共に音を立てて支線に入って行く二〇〇〇系の左側の窓から分倍河原駅が見えた。
 既に上りホームに電車が入っていたので閉塞が解放されるのを待っている様子だ。何しろ上り線を突っ切って行くので、正面衝突が怖い。
 住宅街の中を専用線が延びている。単線の上に古くから有るので住宅が近い近い、乾されている洗濯物に手が届きそうな感じすらする、しないけどね。
 少し行くと甲州街道と交差した、シャッターが降りてくるタイプの踏切を越えると併用軌道になっていた。確か中学時代の友達の内藤君が住んでいた内藤道だった筈。
 元々京王線は併用軌道の多い路線で、京王新宿駅も、現在の新宿駅の南側の甲州街道上にあった新宿追分の電停にありそこから専用線までの区画は併用軌道だったそうだ。
 閑話休題、この普通の道を普通の電車が行く感覚が何とも面白い。
 少し行くと昔住んでいた借家の近くを通るが、そこは幅広の道路になっていた、影も形もないよ?
 ここには踏切はなく、信号待ちをしてから道路を横断した。
 ちょっと行くと駅が見えた、島型ホームで、左右に線路が分岐している、此処で電車がすれ違える様だ。
 停車した京王西府駅は閑散としていて、駅の作りもプレハブ的な簡易構造になっている。
 電車の左側には熊野神社と云う神社があったのだが…昔は社の後ろには小さい山があって雑木林みたいになってたんだけど、何故か石造りの上円下方墳になっていた。
 確かに此処は昔から古墳じゃないかと云われていたが、本当に古墳だとはビックリだ。
 因みに京王西府駅となっているのは南武線の西府駅がある為だが、俺の居た世界には西府駅はなかった。
 だがかなり昔には甲州街道の脇で府中市立府中第十中学校の近くに西府駅というのが有ったそうで、そこが廃止される前に区別と云う事で京王西府駅になったのだそうだ。
 現在は位置が分倍河原駅方向に移動した場所に西府駅というのが出来ている、俺が中学時代に縄文土器の欠片を拾いに行った西府文化センターの直ぐ近くだ。
 ここからは専用線になっていた。
 住宅地と畑の中を進むと左側に二〇歳まで住んでいた貸家の有った所が見えたが、駐車場になっていた。
 ほんの一寸ばかり行くと府中市立府中第十中学校の校舎が見えた、色々…色々あったなぁ。ふっふっふ。
 国立市に入ると直ぐに団地が見えた、その敷地の中に線路が延びていてそこに富士見台団地駅があった。
 ここは普通電車が止まる京王線の駅らしい作りになっていた、反対側のホームにはアイボリーホワイトの車体の5000系が停車している。
 これまた懐かしい電車だなぁ、と思っていたらこちらが到着するのを待っていたらしい5000系が動き出した。
 だが聞こえてきたのは吊り駆け駆動独特の音だった、つまり5100系と云うことですね?
 ホームにチャイムが鳴ってドアが閉まったが電車は動かなかった、何かなと思っているとアナウンスが流れて来た。
「ただいま信号待ちです。暫くそのままお待ち下さい…発車致します」
 少し揺れて団地の敷地から出ると大きく右にカーブし、直ぐに大学通りの真ん中に敷かれた併用軌道区間に入った。
 だが、国立市電の大学通り循環線との平面交差があった為に断続的な衝撃が足下から伝わってきた、窓から上を見てみると送電線は京王線の物しかなかった、この時は不思議に思っていたのだが、この大学通り循環線を走っている車両は国立駅の北側にある鉄道研究所で開発された充電式路面電車の技術を使った最新型だとの事。
 電停の前に張られた架線から随時細かく分けられた充電池に充電しているそうで、通りで充電式なのにパンタグラフが付いている訳だ。
 充電式の電車と云えば西武遊園地とユネスコ村を繋いでいたおとぎ電車が印象に残っているから違和感があるのだろうか。
 広い通りの真ん中は自動車の進入が制限されるセンターリザベーションとされていて、そこを京王線が進んでいるのだが、この大学通りの一番外側を低床路面電車が走っている。
 後で乗る。
 大学通り自体は自分の世界の物より幅が広げられており、真ん中を準専用線の京王線が走り、内側2車線が普通道路で、外側の1車線が朝と夕の時間指定で路面電車とバスの共用道路になっていた。電停もバスと共用しているみたいだ。
 自転車が通れる歩道橋を越えて少し行くと交差点があるのだが、そこから延びて大学通りに対して直角に平面交差しているのが国立市電旭富士見通り循環線である。これも後で乗る。
 ここら辺までは住宅街が広がっていたが、両側に一橋大学のキャンパスが続く。
 大学の構内には自然が豊かな雑木林が残っており、谷保村時代にヤマと呼ばれた自然が残っている場所でもある。
 キャンパスが終わると市街地だ。
 俺の世界でも商店が連なる場所であったが、ここの世界の方が繁盛している感がある。
 街灯にパリから輸入した物を使用していたりと洒落た雰囲気を出していたのが更に強調されている。
 どうやら国立駅が路面電車を除き4路線が接続するターミナル駅と化している為に人の乗り降りが多くそれに合わせて市街地の活性化も進み、路面電車を運行するだけの需要が発生している感じがする。少なくとも自分の世界の国立では路面電車を運行する需要を賄い切れなかったろう。
 で、終点の京王国立駅である。
 一面一線のホームで長さ的に二〇メートル車体四連が止まれる位の長さをしている、だが通りの真ん中なので些か狭苦しい感じがする。
 駅前のロータリーの直前の道の真ん中にホームが一つしかない駅がポツンとある訳だが、出入り口は大学通りの横断歩道に直接降りられる改札とそのまま地下に繋がるエレベーター口の二つがあった。
 この際だから地下に降りてみる。
 幅が狭いエスカレーターに乗って地下に降りると結構な広さの地下街になっていた。
 切符を自動改札に入れて地下街に出る。
 正面に西武鉄道の改札が見えた、位置的にはロータリーの緑地と池が有った場所の少し先だけど、階段があったので上ってみる。
 するとロータリーの真ん中に大体高さ2メートル位の展望台みたいな土地があって、斜めになっている花壇には「国」「立」の文字の形に花が植えられていた。
 これは俺の世界にも欲しかったな、ロータリーは自動車の流れが激しく真ん中の島には近寄れなかったし。
 西武鉄道の切符売り場を見てみると立川駅から国立駅を通り、京王線と中央線のほぼ中央を通る西武立川線と国立駅と萩山駅を結ぶ西武国立線の2路線が走っていた。
 西武線は地下駅になっていて、中央線は高架駅だから地上には線路が走っていない事になる、それは俺の世界も変わらない訳だけど。
 さて、腹が減ったので地下街の案内図を見てみる、が、小学生の頃に良く連れてこられたマックが有るかどうか気になったので西側出口その1から地上に出てみると、あった。
 4階建てのマックがそこだけは変わらずにあった、思わず入ってみる。
 いや、普通にマクドでしたよ。
 横断歩道を渡って国立駅の方に歩いて行く、相変わらず非対称の木造斜め屋根が特徴の国立駅の駅舎でした。
 これだけは変わって欲しくないなぁ、と思う。
 何しろ国立と云えば国立駅の駅舎がシンボルですから。
 さて、駅前ロータリーですが、俺の世界では駅の正面にタクシー乗り場があり、駅舎を背にして右側がバスの降車場になっていて、左側が乗車場になっていた。
 現在はロータリー全体が拡張されていた、何しろバス路線とタクシー乗り場に加えて路面電車が2系統も入っているのだから必然的にそうなる。
 右側の外側からバス降車場があり、内側に国立市電旭富士見通り循環線の降車用電停、更に内側に大学通り循環線の降車用電停が設置されている。それぞれの島には地下街へ乗降出来る階段が設置されていて屋根もあるので雨が降ってもほとんど濡れずに済む様になっている。
 正面は変わらずタクシー乗り場となっていた。
 左側は外側からバス乗車場が2列、内側に旭富士見通り循環線の乗車用電停、更に内側に大学通り循環線の乗車用電停の順である。
 ロータリーの周りは3車線が確保されていて自動車が手狭になっている事もない。
 駅の周りを歩いていると市電の窓口があって、そこで市電の一日乗車券が売っていたので購入。五〇〇円也。
 まず最初は大学通り循環線に乗る。
 電停には歩道橋で渡る、因みにほとんどの人は道路を横切って渡っていた。
 大学通り循環線は架線の無い路線なので新型の充電式低床路面電車である、外観は岡山電鉄のMOMOみたいな二両編成の超低床車だ。
 しかも循環線なので基本的に前部の運転席しか使わないから後部の運転席は覆いが被さっている。
 車内は電停の段差とほとんど差がない床にする事でバリアフリーを実現しています。
 乗った路面電車は一回タイフォンを鳴らしてから出発した。
 ロータリーに沿ったS字カーブを曲がると大学通りの一番外側を路面電車が走る。
 普通の路面電車が道の中央を走っているから、道路の外側を走るこの路線は非常に新鮮な気分である。
 因みに路上駐車は完全に禁止されています。
 それプラス今の時間は制限されていないけども朝夕の時間は路面電車とバス専用レーンとなっているので道路が渋滞してもスムーズに路面電車とバスは進行出来るので定時制を確保しているのだそうだ。
 直ぐに最初の電停に到着した。
 ここら辺は商店街で、道の向こう側には紀伊國屋とかもあるので結構人が乗り込んで来る。
 やはり出発前にタイフォンを鳴らし発車、直ぐに一橋大学前の電停で停車するが余り乗車する人は居ない。
 大学通りの脇には低灌木の生け垣で区切られた区画があり、その外側に歩道がある。
 俺の世界では今路面電車が走っている所に自転車専用道が俺が高校一年生の頃に作られていたのだが、どうやら再整備された歩道の方に色分けされた自転車道が設置されている様です。
 次の交差点の前の電停で停止、アナウンスによると旭富士見通り循環線の電停に乗り換えが出来ますとの事。
 更に進み例の歩道橋の下を潜る、例の市の景観条例に違反して建設された高層アパートの姿はなく、保険会社の社屋の姿もない、どうやら学校の様だ。
 結構広い敷地みたいで、私立だな、良いトコの学校みたいだ。
 門の所には、んー、目が悪くて見えづらいが星南大付属高等学校とか書いてある様な風に読める。
 左側には以前通り都立の国立高校が有るし、時空融合前の俺の世界よりも文教区としての役割を担っている印象がある。
 此処の電停でも停止、直ぐ先にある交差点の所でさっき乗ってきた京王国立線の線路と平面交差するので線路の形状を目視で確認。
 左に垣間見える富士見台団地駅に車両の姿が見えるので、信号待ちだろうか。
 正面の自動車用信号機の表示は赤を表示している、路面電車用の信号もバッテン印を点灯している。交差している道路の方は黄色から赤に変わった。
 こちらの信号はそのままなので、やはり電車待ちの様だ。
 左斜めの線路から姿を現したのは、7000系と云う奴の様だ、四両編成で正面はホワイトアイボリーで側面は波形ステンレスに京王ブルーと京王レッドの帯が描かれている。
 本線からの直通列車だろうか、平面交差の場所を越える度にゴトン、ゴトッゴトン、ゴトッゴトン、ゴトッゴトン、ゴトンと音を立てて大学通りの併用軌道へと侵入して行った。
 それを見送っていると路面電車用の信号が前進可能に切り替わった。
「ハイ、揺れますのでご注意下さい」
 アナウンスの後にタイフォンを鳴らして路面電車は前進を開始した。
 この交差点から南武線谷保駅までの道路は少し細くなっていたので緩いカーブを曲がってから道に入っていった。
 狭いと行っても軌道二本の他に車線も2車線確保されていたので渋滞とかの心配は、元の世界と同じ位しか無い。
 そうこうしている内に左手には富士見台団地に付属して作られた商店街の前の電停に到着。
 昔は此処におもちゃ屋があって裏のゲーム機で遊んだり直ぐそばの肉屋でフライドポテトやコロッケを買って食べたりしながら遊んでいた。
 だけどメンチカツや唐揚げはおやつじゃなくておかずだから駄目だ。
 そうそう初めてガンプラの存在を知ったのも此処だったし、ライトセイバーのオモチャを買ったのも此処だった。懐かしいなぁ、今はもう無いけどね。
 バスはこの交差点を右折するのだけど、路面電車の軌道はまっすぐ続いている。
 このまま正面の谷保駅に向かうのだ、ここも小さなロータリーとなっているが路面電車がUターン出来る程度の広さしかない。
 ここは普通の電停になっていて、降車と乗車の区別はされていない、此処で一度下車する。
 南武線を越えて甲州街道の向かい側に昔懐かしい谷保天満宮があるのだが、今回は時間もないのでパス、降りた路面電車はロータリーに沿ってグルリと周り、線路がループ線になっている為に折り返す事無くまた国立駅に向かっていった。
 この谷保駅自体は、大して変化が無いなぁ。
 少し駅前が賑やかになって居る位か。
 さてここから南武線に乗って立川に行き、西武立川線に乗って国立駅で降りてから旭富士見通り循環線に乗っても面白いのだが、今からそちらに行ってしまうと暗くなってしまうのでこれもパス。
 さて、商店街の方への路地を進むと、お~、忠実屋がまだある。
 んでもって小学校の頃良く来ていた駄菓子屋さんもあるとは。
 流石にお婆さんは一緒じゃなかったけどね。
 さて、気になっていた案件も確認したし、また谷保駅に戻って路面電車を待つ。
 今度来た電車も超低床車だった。一種類で統一しているのかな。
 今回見られなくて残念だったのが路面蒸気を見られなかった事だ、ドイツにあったモリー鉄道と云うナローゲージの路面蒸気鉄道を模した特別列車が走っているらしいのだが。
 帝都区の路面蒸気は路面電車のエンジンが蒸気版みたいな物だったけど、ここのは大昔に西武ユネスコ村を走っていたコッペル蒸気謙信号みたいに客車を引くタイプらしい。
 その電車の左側の座席が空いていたので座り景色を眺めた、谷保から国立へ向かうが、まぁ行きと大して変わらない光景だ。
 大学通りの国立駅側の端に近付くと京王国立駅が見えてきた。
 さっき降りた駅だが、通りの真ん中に普通電車の駅が忽然と建っていると非常に不自然だ。
 因みに駅のホームから線路を挟んで向かい側は目隠し代わりの看板が建てられている、最近の女子高生のスカートは短いからなー、俺の時代は膝下一〇センチ以上が普通だったがいつの間にやら膝上になり、今では股下で計った方が分かり易い位だから、普通に歩道を歩いていると高い位置にあるホーム上にいる女性方の物が色々と見えてしまっていたそうな。
 女性からすると嫌らしい目で見る男性が悪いのであって、自分たちは可愛い格好をしているだけなのだから男性に全ての非があるのだ、とテレビか何処かで聞いた事がある。
 と言う訳で犯罪的な男性の目から清廉潔白な女性を護る為に看板を建てたそうな。
 ふぅん、そうなのか、なるほど。なるほど。
 左側の商店を眺めると、色々と思い出のある店々が見えてきた。
 この文房具屋じゃあ高校時代にケント紙や色々買って製図やアニ研の絵を描いていた覚えがある。
 舶来品を多く扱うスーパーで伯母さんが買っていた祖父母の家にあったピーナッツバターのガラス容器にオズの魔法使いの絵が描かれていたな。
 あ、そうそう小学校の友達の誕生会を此処の二階にあった軽食屋でやったな。
 お、ここの煙草専門店まだやっていたのか、とか色々思い浮かんでくる。
 それはともかく国立駅のロータリーにある降車用の電停で降りてグルリと半周して今度は旭富士見通り循環線の乗車用電停の前で待つ事5分位。
 こっちの路線は架線式なので昔の都電みたいな普通の路面電車なのかと思えば、ヨーロッパのハノーヴァー電車に酷似した路面電車がやって来た。
 やはり大学通りの街灯までヨーロッパから輸入してしまう位に欧州趣味を町並みに活かす町作りを心掛けている位だから、町を走る路面電車も欧州風にしたのだろう。
 車両の両端が若干窄まり気味の車体は思ったよりも床が低く作ってあった。
 この路面電車は前方乗り込みの後方降車となって居るらしい。
 座席はオールロングシートで、運転席の直ぐ後ろの左右と前後に合計4つの扉がある。
 因みにワンマン運転である。
 運転席は進行方向が逆の時は車掌席も兼ねており、現在そこにはレトロ調で欧羅巴風の制服を着た女性車掌が座っていた。
 因みにワンマン運転であるので自動運転なのか、もし違うのであれば運転手はどうしたのか、と訊かれれば現在、男性の運転手がマスコンを握って出発を待っている状態です、と答えましょう。
 運転手も車掌も姿が有りますがでもワンマン運転なのです。
 何故ならば、車掌さんの耳の位置にはアンテナ型ヘッドギアのギアレシーバーの姿が有る事から、車掌さんの正体はHM-13セリオだと推測出来るのです。
 うむ、実物を見るのは初めてだ。
 俺の世界にはメイドロボなんて居なかったし、この世界になってからも代理店が少なかったから東北方面、特にいわき市でセリオ所か廉価版である所のマルチも見たこたぁないのでした。
 自家用車一台分の値段かぁ、欲しいかも。
 それは兎も角、時間となったので路面電車は出発した。
 今度は左折して旭通りへと入って行く。
 この道は大学通りと違って2車線しかないので路面電車の軌道を2条も敷くと自動車の運行がきつい、なので駅から左側の道のみにレールは敷かれている。
 循環とする事で解決している訳だが、それだと駅から富士見通り側に行きたい時は時間が掛かるばかりなので、富士見通り側のみ複線になっていて音楽村に直接向かう列車も運行しているのでした。
 こっちの方へ進むと我が母校、国立市立国立第三小学校に近付く訳だが、おっ右側にスカラ座がある。
 昔は良くこの映画館に2本立ての映画を見に来たなぁ。
 「サウンド・オブ・ミュージック」「メテオ」とか、ライオンと暮らす家族の映画はなんてんだっけか。まぁ良いや。
 そう言えばチーズを刳るんだ何とかドックとかいうのを初めて食べたのもここだった。
 少し行った所の左側には野外釣り堀と屋内釣り堀のふたつがある、ここで初めて外来魚のティラピアを見たっけ。
 そのまま進んで行くと旭通りの中間ぐらいで電停に停車、この先の交差点に洋菓子屋さんがあったけど高級店だったからトンと縁がなかった。
 で、旭通りの突き当たりの信号で停止信号にて停止。
 ここに小さなおもちゃ屋があって超合金とかプラモデルを買った覚えがある。更に昔はその裏にあった銭湯に風呂桶の節が抜けた時に入りに行った記憶が…何歳の頃だろうか。
 ここを左に入るとタマラン坂があって国分寺に行けるのだが、元々この旭富士見通り循環線は国分寺駅北口から国立駅を経由して富士見通りの突き当たりを南下し多摩川に至る路線であり、砂利運搬と旅客業務をしていたのだ。
 知っての通り関東大震災で破壊された市街を再建する為にコンクリート用の川砂利が多摩川で採取されていて、それらを運搬する目的で多摩川流域に様々な砂利採取運搬用の路線が建設された訳だが、昭和初期に砂利の採取が禁止された上に、狭い道に軌道を敷設していた為に路面電車より大型車輌の通行が難しい為に廃線とされた物だった。
 一時は西武多摩湖線及び西武国立線と接続し大環状線を形成していたのだがモータリゼーションの進行によりこの不採算路線のみが廃止されたという訳だ。
 そのモータリゼーションの一大モデルと成ったアメリカは二〇世紀初頭には世界に冠たる鉄道王国であったが、モータリゼーションの名の下に道路の整備を進めると共に自動車会社が鉄道会社を買収し廃線を進める等をした物であった為に、後には自動車に乗らなければまともな社会生活すら送る事が難しい程の社会的弱者に厳しい社会と成っていった訳だが、当時ではそれを予想するのは困難だった。鉄道路線買収云々は都市伝説らしいが。
 ただ、社会環境学の研究者でもあった当時の国立市長がモータリゼーションの勉強をしてモータリゼーションを推し進める事で起こり得る日本の国土での不具合と公共機関の必要性を認識していた事から、文教区としての権限をフルに使って国立市整備計画を推し進めた為にこの不採算路線を活用する事に決定したのであった、との事。
 しかし、欧州風に傾倒していた当時の国立市の整備計画が優先されていた時に米国式の片運転台車輌を前提とした循環線を採用したのはかなり苦労したんだろうなと考える。
 この交差点を右折すると三小通りになる。
 ここは商店街という程ではないが、そこかしこに店が点在している。
 ただ、住宅街なのでポツポツと乗客の乗り降りはある様だ。
 少しだけ行くと国立三小北交差点に突き当たる、ここの左側が昔住んでいた都営住宅がある訳だが、特に寄らない、そう言えばあのゾウの滑り台はあるのか、それだけは気になる気がする様なしない様な感じがしないでもない。
 結構きついカーブを右折する、車輪から軋む様な音が聞こえてくる。
 直ぐに目に入ってくるのは左手の豆腐屋さんだろうか。
 えらく古い建物の様な外観をしている、地震が怖いです。
 交差点の左側には幼稚園があり、少し先の右側には保育園がある。
 両親が共働きだったから家から近いここの保育園でお世話になってた、時空融合で怖いのが、もしも相手が自分の知っている人物でも相手が自分の事を知っているかどうか分からない事だ。
 まぁ、ともかく三〇年近く前の事だし、今更だな。
 交差点で信号待ちをしていると時間が妙に長かった。
 そう言えば、路面電車なら頻繁に加減速しながら移動出来るが普通電車では難しいと云う事だから、目の前の京王国立線の電車が通るのかも知れない。
 電車優先で信号が制御されるらしい、江ノ電や海外の路面電車ではかなり使用されていると聞いた事があるから、おそらくそれの筈。
 で暫く前方を注視しているとアイボリーホワイトに赤い線が引かれた列車が横切った、これは六〇〇〇系か、俺が小さい頃は京王線で特急と云えばこの電車だった。
 四連の六〇〇〇系五扉電車が通り過ぎ信号が切り替わり、大学通りの平面交差を超えて行くと左手にまたもや学校が、ここは私立の学校ですね。
 ここから先の直線はほぼ住宅街で、コンビニが一軒有る位だった。
 暫く行くと郵政大学校があり、その交差点を軌道は右折している。
 旧線の砂利運搬列車はここを左に真っ直ぐ道なりに進み、甲州街道を超えて多摩川に至った所で右折し、少し行った所の砂利採取所が終点だったらしい。
 俺の世界では多摩川が見えた所にあった精華園て云うプールに夏に良く行っていた記憶がある。
 勿論路面電車じゃなくてバス、若しくは自転車でだが。
 プールの後でおでんを食べるのが好きだったんだが、芥子を付けすぎてのたうち回る事が多かった。無論好きでやっていた訳だが、今からするとなんて無茶な事をと笑ってしまう。
 さて、二〇〇メートル程行くと富士見通りが見えてくる、斜め右に右折して更に行くと日本の音楽産業の中心地である国立音楽村《くにたちおんがくむら》に到着する。
 元々は此処に東京高等音楽学院、現・国立音大を創立し、国立野外音楽堂を設置した事から始まるのだが、周囲を音楽家や音楽愛好家に分譲し始めたのが音楽村の始まりだった。
 時代が下るにつれてクラシック楽団の本拠地になったり楽器屋が店舗を構えるなどして音楽街としての性格を強めていったのだが、国立国立音楽ホール(旧帝立國立音楽堂)が出来てからレコード会社の本社が出来はじめ、音楽プロダクションやプロモーターなど、音楽産業の中心地として繁栄している。
 俺の世界では都心部に音楽スタジオなどが数多くあった印象があったのだが、時空融合後は大手と呼ばれる音楽レーベルが一種のステータスとして此処に移転して来たりしたので、他の世界の音楽関係会社もかなりの数が移転して来ているらしい。
 確かアイドルのプロデュースをしているパルテノンプロとか、アーサープロとかが有名らしい。良く知らないが。
 で、音楽村は当初分譲されていたよりも区画は拡大されていて、国立市内では一橋大学に次いで広い面積が音楽村の特別区画とされている。
 さて、此処の電停で降りる事にした。
 降車ボタンを押すと車輌後部の車掌席にいるHM-13セリオさんが『次、国立音楽村電停に停まります』と口頭で告知する。
 何故だか何となく恥ずかしい。
 路面電車が完全に停車するのを待たずに席を離れて出口である車輌後部へと移動する。
 車掌さんに一日乗車券を渡すとパチンと鋏を入れて戻して貰う。
『ご乗車ありがとうございました、いってらっしゃい』
 手をヒラヒラさせている車掌さんに帽子を持ち上げて挨拶するのだが、やっぱり気恥ずかしい感じだぜ。
 路面電車を降りて周囲を確認すると、道の反対側には国立駅から音楽村に向かう路線の軌道が確認出来た。
 その電停の所だけ道幅が広がっていて、車輌の進行方向を変える時に後続の自動車の邪魔にならない様に配慮されているらしい。
 そこの所だけ白線が手前に描かれていて、バックして反対車線に移ってくる路面電車と接触しない様になって居る。
 周囲の建物にはこの世界になってから知った音楽プロダクションや、有名どころの音楽関係の名前が付いた看板がゴロゴロしている。
 国立市の景観条例は厳しい事で有名だが、特にこの音楽村では厳しく制限されていて地上3階建て以上のビルディングや周囲の雰囲気にそぐわない物は厳禁である。
 もう作っちゃったから手遅れだよ、とか言って強行した大規模アパートは強制執行されたという話です。
 さて、大体が欧羅巴風の建築様式を模している建物を見上げながらと或る店に入る。
 俺が居た世界では存在しなかったが、この世界になってから流行しだした物にヴァーチャルアイドルと言うのがある。
 俺の知っている西暦二〇〇四年の世界では音声合成ソフトとか言う物もまだまだ実用化の域に達していなかった訳だが、色々な時代が混じったこちらの世界では、歌う事の出来るPC用のDTMソフトが実用化されていたのであった。
 最初の内はほとんど有名ではなかったのだが、ネットで人気に火が付いて実際にアイドルデビューしてしまったのがヴォーカロイド2の『初音ミク』である。
 素人の場合どうしても音楽よりも歌の方がインパクトが強いが、男の場合には歌の上手な恋人が居ないとアイドルに歌わせる様な自作の歌を発表するのは難しい、しかし、このソフトが有れば初音ミクに歌わせる事が出来る訳だ。
 それで様々な人々が作った歌が発表されたのだが、最初に人気に火の付いた『初音ミク』は他のヴォーカロイドに比べて余りにも有名になった。
 最初の内は曲だけで知る人ぞ知ると言う塩梅だったのだが、CGでプロモーション映像を作り出した頃から人気は更に高沸して行った。
 その熱は大変なムーブメントとして広まって行き、会場のスクリーンに映像を映したコンサートまで行われた位だ。
 ちなみに立体映像ではなかったらしい。
 そこで実際には存在しないヴァーチャルアイドルと言う事でデビューしたのだ。
 ただ、この世界でも立体映像は一般的ではないのだが、人間に見紛う様なメイドロボは実現されているので、実際に作ってしまった訳である。
 初音ミクを。
 この公式として認められている初音ミクはDTM『初音ミク』の制作会社である札幌のクリプトンと国立の此処にしか存在しない。
 しかもデーターリンクで経験値を同期させているそうな。
 趣味の為に生きていると云うべきヘビーユーザーの中にはMMD(ミクミクダンスの略)の各バージョンに拘った初音ミクを自作してしまった強者もいるし、他のヴォーカロイドや亜種と呼ばれる存在にまで手を伸ばした強者も居る。
 因みに一般的なメイドロボが一般自動車並みの値段だとすると、スーパーカー並の値段になるそうです。スゴイデスネー。
 コスプレだけならそうでもないそうですが。
 現在では各ボーカロイドの発売会社はそれぞれのフラッグシップ的存在のヴァーチャルアイドルを作成している。
 今の所、インターネット社のMegpoidとAH-Software社のSF-A2開発コードmikiの合計3体が発表されている。あ、4体か。
 と言う訳でその内のひとつである初音ミクを見学に来た訳でした。
 ついでにDTM『初音ミク』の解説本も買おうかなと思っていますけどな。うむ、実は『初音ミク』のソフトを買ってはみたのだけど作曲の才能はないなぁ~と実感出来ましたよ。第一作詞が出来ないからなぁ、ポエムは無理、社内の安全標語すら苦手なのに長文の作詞なんて出来ませんがね。
 しょうがないので子供の頃に友達の家の前で相手を呼ぶ囃し声『~~くん、あ~そ~ぼぅ』と云うのと変わったジャンケンの掛け声を再現した位しか出来なかった。
 囃し声の方は文字数で調子が変化するし、ジャンケンもどきの方はパーがハワイ、グーがグンカン、チョキがチンボツで最初のジャンケンで先攻を決め、先攻が指示したジャンケンの図柄と後攻が同じ物を出したら先攻の勝ち、違う物を出したらジャンケンの図柄の勝っている方が先攻となり、勝負を続けるのだ、色々パターンがあってたいへんだった。
 店内はMIDIやDTM関連のPCを中心とした機材やソフトがズラリと並んでいた。
 その一画にヴォーカロイド関連の展示販売があったので足を向ける。


 腹が減ってきたので何か食べたいな、うむスパゲッティーにしよう。
 国立は欧羅巴風を前提にお洒落な町並みを構築しているので、イタ飯は必須なのだ。
 さて、大学通りの西側をぶらついてみる。
 小さい頃は大学通りの東側にあった中華屋でラーメンと餃子を戴くのが定番だった。
 母方の祖父が砲兵として満州に行っていた時に餃子の食べ方を知ったとの事で醤油ベースのタレではなくてお酢ベースのタレが我が家では普通だった。
 因みに酢が七割、醤油が二割、辣油が一割である。白菜メインの餃子にはさっぱりしていて好きです。
 む、ここにすっぺ。
 裏通りの喫茶店みたいな店に入った、パスタ屋さんだ。
 メニューを眺めながらスパゲッティーと言えば今は亡き母方の祖母が作ってくれたミートソーススパゲティーを思い出す。
 挽肉をラードで炒めてみじん切りにした玉葱、人参、ピーマンを追加して、ソースとケチャップで味付けしたあのミートソースに勝る物はない。
 だから別の物にしよう。
 メニューを眺めて行くとアサリのタップリと乗ったボンゴレが目に入った。
 ボンゴレかぁ、ボンゴレと言えば母方の祖母が作ってくれたあさりのボンゴレを思い出してしまう、にんにくをガンガンに効かせて塩味の濃いあれは子供向けではなかったよ。
 今食べたら美味しいんだろうなぁ、また食べたいなぁ。
 カルボナーラは熱いチーズが腹を下す原因になる事があるので却下。
 と言う事で、ここはペペロンチーノではないだろうか。
 この後は書く事が無くなったので、本日の日記はこれで終了です。


<アイングラットの後書き>
 滅茶苦茶お久しぶりです。
 又々期間が空いてしまいました。皆さんお変わりはないでしょうか。
 私は色々と変わりましたが。
 いやぁ、大震災って怖いですねぇ、マジホンで死ぬかと思いましたので。
 取り敢えず今の土地にも慣れて来て、関西地区を遊び歩いています。
 では、近い内に……。





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