スーパーSF大戦外伝
1:戦友帰還 〜同期の桜〜
神奈川県海上自衛隊横須賀基地 自衛艦隊司令部 新世紀元年 9月9日
嶋田海将率いる第二次南太平洋調査艦隊が出航した翌日、堀悌吉海将率いる日本在日米軍合同アメリカ調査艦隊が横須賀基地に帰還した。
この日東京に出向していた山本海幕長は彼等を出迎える為に予定を一部変更し横須賀に戻った。
「堀、ご苦労だったな。無事に帰ってきてくれて何よりだ」
「そちらこそわざわざ出迎えに来てくれるとは思わなかったぞ山本。 俺がいない間そっちは大変だったんだろう?」
「川崎と焼津で起きた怪獣騒動の事か? それなら心配ない、無事に解決したよ」
横須賀基地の司令官室で山本五十六海幕長と堀悌吉海将は海軍兵学校時代の頃に戻ったかの様に歓談していた。
堀悌吉は山本や嶋田と同じ海兵32期の出身であり、在学時から「海軍兵学校始まって以来の秀才」と称された人物であった。
何しろ入学時の席次が192人中3番、卒業時には首席、海軍大学時代も全ての科目で恩賜を賜ったのだからその才能が知れるというものである(因みに同期生の席次は山本13番、嶋田61番)。
本来なら堀の様に首席で海軍兵学校を卒業した者はその後もエリートコースを進み、連合艦隊司令長官、海軍大臣への道も最短距離(平時の競争率は一倍前後)のはずであったのだが彼は当時米英との協調を唱える条約派(艦政派)に属していた為に対米開戦を唱える伏見宮を中心とする艦隊派の妨害によって昭和9年10月の大角人事(艦隊派の海軍大臣大角峯生によって条約派の優秀な人材が次々と予備役に編入された人事。 この出来事は海軍全体にとって大きな損失となり日米開戦の遠因にもなった)で予備役に編入させられてしまったのである。
当時、この報をロンドン軍縮会議から帰国の途中滞在したベルリンにて知った山本(当時少将、堀は中将)は「堀を失ったのと巡洋艦一隻を失うのとどちらが海軍にとっての損失か分かっているのか」と嘆いたという。
本来ならそのまま現役復帰の可能性は無きに等しかった堀だが、時空融合時の混乱の中で山本と再会した堀は彼の推薦もあって海上自衛隊の調査艦隊司令として現役に復帰したのである。
ともあれ調査艦隊の任務は無事成功裏に終わり、北米の政治、経済、社会情勢等の詳細な情報(この時のレポートは後に「堀レポート」と呼ばれる)が連合政府にもたらされたのであった。
「それでアメリカの現状はどうだったんだ? お前の個人的な見解を聞かせて欲しいんだが」
「……良くはない。 ムーの本格的侵攻以前もそうだったが今のアメリカは訴訟合戦と法の乱立によってもはや我々の知る『自由の国』ではなくなっていたよ」
アメリカの現状をその目で見てきたからだろう、山本に促されて見解を述べる堀の表情は暗いものだった。
彼の言うように2050年代のアメリカは自己自由の権利と他人への権利侵害の防止、そして自己責任の徹底化を定めた法律が幾重にも絡み合った結果、アメリカという国家の枠組みと憲法を揺るがしかねない状態にあった。
そこに来て議会ではムーの侵攻に対処する為の国家総動員と国民の思想、発言の自由を制限する事を求める一派とそれ以外の派閥が対立して議会を空転させ、アメリカ国内での社会不安は増大の一歩を辿っていた。
「個人を尊重すれば国家が傾き、国家を尊重すれば個人が成り立たなくなるというわけだな。我々の世界は後者の方だったが現在のアメリカは前者か。 アメリカの例は日本連合が反面教師とするべき点なのかも知れんな……」
「そうだな。 それからこれは俺の個人的な意見だが、アメリカは遠からず我が国へ支援を求めてくるはずだ、アメリカが単独でムーに勝利する可能性はかなり低そうに思えたのでな」
「わかった、その事は俺の方から政府に伝えておくことにしよう」
この時、堀が山本に語った「アメリカからの日本連合に対する支援要請の可能性」は翌年の南米における邦人救出作戦の際に現実のものとなるのだがそれが恫喝そのものと言える内容であろうとはこの二人も想像していなかった。
「それにしても嶋田と入れ違いになるとはな。 あいつは無事に任務を果たしてくれるだろうか?」
「心配いらんよ、嶋田はこっちに来てから随分と変わったからな」
会話の後、山本と堀は窓の方に顔を向けた。
その視線の向こうには太平洋が広がっていた。
2:欧州系自衛官 〜日本に集う者たち〜
新世紀元年4月〜現在
時空融合以降、旧軍の吸収等によって大きく変化した自衛隊であるが、その事を示す好例がヨーロッパ系日本人自衛官の存在である。
彼らの多くが第二次大戦時の軍人であり、時空融合で祖国が失われた事を連合政府から知らされた後日本連合へ帰属し、シーレーン防衛の為に熟練の船乗りを必要としていた連合政府の海上防衛方針によって艦艇ごと海上自衛隊に編入された事は既に述べた。
では彼らはどの様にして日本連合にたどり着いたのだろうか?
ここでは彼らが日本連合の地を踏むまでの経緯を簡単に述べる事とする。
時空融合により太平洋、大西洋、インド洋等を問わず戦場となった海域に出現した彼らは、同じ頃日本連合で自衛隊・旧軍が司令部との通信で現状の確認を行ったのと同様に軍隊の本能から本国もしくは最寄の司令部と通信による現状確認を試みたがそれらは全て失敗に終わり、代わりにGGGが世界中のあらゆる言語と周波数で発信した時空融合に関する通信を傍受したのである。
GGGの時空融合に関する情報をそのまま信じたのは元の世界で日本と同盟関係にあった国の者(彼らの中にも半信半疑の者が相当数いた)を除けばごく少数であった。
それでも彼等は日本に行けば本国との通信が不通になった事や、記録に無い艦艇から通信が入ってくるといった自分達の身に起きている不可思議な現象の詳細を知る事が出来るだろうと考え、出現した海域を問わず日本を目指したのだが、彼等が日本に至るまでの状況は太平洋(インド洋を含む)と大西洋では大きく異なっていた。
太平洋、インド洋方面に出現した艦艇が時空融合のほぼ直後から日本連合を目指したのに対し、大西洋に出現した艦艇は出現後ロイヤル・ネイヴィー(大英帝国海軍)が一旦テムズ川河口のサウスエンドに集結、艦隊の再編とエマーンからの補給を受けた後に日本連合を目指したのと同様に大陸側(特にフランスのノルマンディー海岸)ではドイツ、フランス、イタリアといった他の欧州諸国の艦艇と「遣欧艦隊」とでも言うべき多くの並行世界から来た日本海軍の艦艇が幾つかの集結地点で補給を受け、エマーン領となったヨーロッパ各地に点在するようにして出現したドイツ軍を始めとする各国の陸軍、空軍将兵を収容したのち日本連合を目指したのである。
ちなみに、この時収容されたドイツ国防軍や武装SSの中には、グデーリアン将軍をして「この師団だけで連合軍をドーバー海峡から追い落とせる」と言わしめた精鋭である装甲教導師団(パンツァーレーア)、第12SS師団『ヒトラー・ユーゲント』の師団長でのちに第60師団の師団長となるクルト“パンツァー”マイヤーSS少将、同師団の戦車連隊長であるマックス・ベンシェ大佐、SS第101重戦車大隊第2中隊長でタイガー重戦車のエースとして知られるミヒャエル・ヴィットマンSS大尉、「ヨーロッパで最も危険な男」と連合国側から称されたオットー・スコルツェニーSS少将といった第二次大戦史に名を残した師団、戦闘団や有名人が多数存在した。
そして空軍の方にもアドルフ・ガーランド中将率いるJV44をはじめとする西部戦線で活躍した多くのエースパイロット達、1944年の「ラインの守り作戦」において実施された空挺作戦「ボーデンプラッテ作戦」にて降下直前で時空融合に巻き込まれたというフォン・デア・ハイテ大佐と1200名の降下猟兵、イタリア半島モンテ・カッシーノの戦いで奮戦し連合国側から「緑の悪魔」と恐れられた第一降下猟兵師団という様にこちらも第二次大戦における錚錚たる歴戦の部隊、人物が出現していた。
一方、第二次大戦時の世界から来た人物以外では1995年に勃発したという『第三次世界大戦』で欧州が戦場になった世界から出現した軍人も出現しており、彼等の中には『黒騎士中隊』の中隊長であり後に日本連合でも第60師団の戦車中隊指揮官となるアロイス・バウアー大尉や樺太において旧ソ連陸軍、ロシア陸軍を中心とする第77師団の師団長をつとめるアレクセイ・ゴロドク少将がいた。
また、余談であるがこの時相当数の戦車、戦闘機、軍用車両といった兵器も艦船により日本連合へ輸送されていた。
長い航海の末、日本にたどり着いた彼らはそこが自分達の知っている大日本帝國とは全く異なる国家「日本連合国」であることを知ると同時に、自分達の祖国が消滅し代わってエマーン商業帝國の他に二足歩行をする熊に統治されたソ連が出現したことを知ったのだった。
ヨーロッパ諸国の大半が消滅、あるいはそれに近い打撃を受けたという事実は欧州各国の軍人達に大きなショックを与えたが、その中でも兵をまとめる立場にあった司令官達はそれ以上にこれからの身の振り方について考える必要に迫られた。
本国が消滅した以上、自分達が国家の代表であり連合政府との様々な交渉を行う際の窓口としての役を果たさなければならなくなったからだ(交渉の窓口に関しては他に各国の大使館が担当していたが、大使館だけですべてを処理するのには限界があった)。
そして連合政府との幾度かの交渉の末に彼らは一つの結論に達した。
「一旦日本連合に帰属し、身の安全を得る」というのがその「結論」であった。
連合政府側はこの提案を二つ返事で受け入れた。
これは双方にとって悪い提案ではなかった。
これによって日本連合はシーレーン防衛に必要な艦艇と熟練の船乗り、実戦経験豊富な兵士を多数得る事に成功し欧州諸国の海軍側は自分達の「再就職先」を得ることが出来たからだ(再就職先とは俗な表現だが、国家を巨大な営利団体あるいは企業に例えた場合的を射た表現といえるだろう)。
勿論、問題がなかったわけではない。
彼らの自衛隊内での地位、役職や階級の呼称(旧軍時代の階級呼称が復活したときこれをもっとも歓迎したのは彼らであた)をどうするかといった問題があったし、旧軍の将兵がかつての敵国の人間と肩を並べて戦うことに抵抗感を示すのではないかという心配があったからだ。
しかし、実際には旧軍の将兵に対する将官教育の成果もあったのか、それらが問題の種になることはなかったのである。
この様にして自衛隊へ加わった欧州各国の軍人達は、ある者はオーストラリアの独立と共にかの地へ渡り、またある者は日本の文化を吸収し社会にとけ込んでいく一方で、自分達の祖国での文化、伝統、習慣といったものを時空融合後の世界に伝えていったのである。
後年にある士官の一人はマスコミのインタビューに対して以下のようなコメントをしていた。
「祖国を失った我々にとって日本連合の受け入れ表明はまさに『救いの手』であった」と。
この他にもアフリカのアンノウンフィールド内にはアフリカ戦時のエルヴィン・ロンメル将軍率いるDAK(ドイツアフリカ軍団)とバーナード・モントゴメリー将軍麾下の英第八軍が出現しており(新世紀二年六月のゾイド連邦出現時既にゾイド連邦に帰属)、また新世紀元年7月の揺り戻し現象で第二次大戦時東部戦線の戦場となったソ連領内や旧東欧(正確にはエルベ川以東)にドイツ軍、民間人が多数出現するという事態が発生する。
特に、第二次大戦中は東部戦線だった地域に現れたドイツ軍人を中心とした人々(ドイツ以外の国の人々も出現していたのである)はシベリア鉄道を用いた大移動作戦「エクソダス」により極東へ渡って来ることになるのだがそれはまた別の話である。
3:大神工廠
大分県 大神工廠 新世紀元年 9月10日
大神海軍工廠、ここは時空融合によって日本各地に出現した海軍工廠の中でも北海道の室蘭ドック(融合後は北日本鉱業と日本連合政府が51:49の割合で株式を所有する共同運営になっている)と肩を並べる日本いや世界最大級の艦船造修施設である。
しかし広島の呉工廠より広大な面積を誇るにも関わらずその歴史は呉や横須賀に比べると浅く、元の世界において工廠建設の予算が成立したのは1930年代後半の事だったという。
その大神工廠にこの日、一機のヘリコプターが降り立った。
融合前は自衛隊に所属していたと思われるそのヘリに乗っていたのは防衛省の艦政本部から来た技官である。
それだけなら驚くに値しない(時空融合後、艦政本部から各地の造船所への出向・派遣は常識となっている)のだが、今回はその技官の格が違った。
この日訪れた技官は「造艦の神様」と称された平賀譲、藤本喜久雄と、平賀の下で戦艦大和の設計に携わり戦後は南極観測船「そうや」の改装に関わった牧野茂元技術大佐の三名であったからだ。
時空融合の極初期を別とすれば現場に出向く事は無く、各地から送られてきた書類に目を通す事が殆どだった彼等が今回九州まで来たのは佐世保、長崎といった九州各地の造船所で行われている護衛艦改装計画の状況を視察する為であったが
中でもここ大神の視察は、彼等三人の出身世界ではいずれも計画のみに終わった工廠だった事もあり、艦艇改装の視察に加えて工廠施設そのものの視察も兼ねていた。
もっとも、到着した彼等三人は呉工廠を上回る規模を持つ大神工廠に好奇心(技術者魂とでも言うべきか)をかき立てられており、職務が済めばすぐにでも工廠をくまなく見て回りたいという気持ちがあったのだが。
到着後、工廠側が用意したリムジンに乗った三人はヘリポートから今回訪問した目的の艦が停泊しているという艤装岸壁に向かった。
「半島一つを丸ごと工廠にするとは驚いたよ。しかも建設から稼働まで10年しかかかっていないとはな」
移動中、最初に工廠を見た感想を述べたのは牧野技官だった。
時空融合で工廠と共に出現した関係者の証言や発見された工務記録等の書類によると、建設計画当初は別府湾岸の杵築と別府に挟まれた半島の一部を使用するだけだったらしい。
しかし、第二次世界大戦(大神工廠の存在した世界では大ドイツ帝国が大英帝国本土を制圧しソ連はスターリンをはじめとするトップが暗殺された事により休戦したという)の勃発とそれに伴い冷却化の一途を辿った日独関係の影響を受けて建設計画は年毎に規模が拡大され、遂には半島全域を工廠化するに至ったという。
具体的に言うならば対独戦備十ヶ年計画、通称『九九九艦隊計画』の成立による極端な期間の短縮により大神海軍工廠は突貫工事で二〇〇名以上の犠牲者を出しながらも計画当初予定されていた半分の期間、実に一〇年で本格的な実働を達成したのである。
そして現在、大神工廠は時空融合により出現した以後も呉や横須賀を上回る軍事プロダクション・センターとしての機能をフルに発揮し、海上自衛隊のみならず陸海空特の四自衛隊そのものにとって不可欠な施設になっていると言えた。
大神工廠の主要機能は30万トンドック(但し、これは公称である)一基と10万トンドック2基が設置されている真那井地区(西側地区)と小型艦(巡洋艦、駆逐艦クラスがこれに該当する)用の建造ドック8基が設置されている牧内地区(東側地区)に分かれている。
そして、2つの地区の周囲には火砲、装甲鈑、機関から被服、糧食にいたる一貫した効率的な生産施設を始めとする様々な工廠設備が存在していた。
しかも規模が巨大なだけでなく物資生産の速度も驚異的なものがあった。
その証拠に大神工廠では第三次世界大戦の開戦後に7隻の艦艇を完成させていたという。
このうち4隻は開戦の年(1948年、開戦は同年5月)に着工した戦時急造型駆逐艦「松」級だったが、この点を割り引いてもこの生産能力は融合後ほどなく工廠を訪れた連合政府の関係者を感嘆させるのに十分なものと言えた。
そしてこれほど大規模な大神工廠が連合政府の防衛計画を左右しない訳は無い。
現にこの3人が艦政本部に戻ってから、連合政府防衛省は海自との協力の下、「基地・工廠運用計画」を水面下で発動したのである。
これは日本各地の海自基地・工廠を、それぞれの地理的条件に適した役割を与え、平時の経済活動を効率的に行い、かつ将来予想される有事に対応しようとする物である。
まず、ここ大神工廠は海上自衛隊の主力兵器たる空母、大型打撃護衛艦(戦艦・巡洋戦艦)の製造開発において中心的役割を負う事になり、大型艦の製造は大神に大きくシフトすることになる。
もっとも大神工廠にとって未来兵器である核融合炉や電子戦兵装、レールガンなどは、SCEBAIやその他研究施設が近い横須賀工廠で研究開発が続けられた。現に核融合炉搭載1番艦である「えちご」や潜水艦青の6号タイプ「りゅうおう」は横須賀で竣工したのであった。
また大神に次ぐ規模の室蘭工廠は、計画策定中に「赤い日本」のテロ攻撃を受けた事もあり、艦船の新規建造より修理・補修・改造が活動の主軸となっていった。
対潜護衛艦や補助艦艇の建造拠点は日本海側の舞鶴が選ばれた。これは出現した舞鶴旧海軍工廠が軽巡・駆逐艦といった小型艦を主に建造していた事と、ゾーンダイクの進入を防ぐ事が比較的容易な日本海側で更に本州中央近くに位置している事が理由である。
更に長崎、佐世保、横須賀、室蘭といった外洋に面する所は、新規生産施設という面ではかなり後退したが、一朝事在れば艦隊の補修および出撃拠点となることが必然的に求められる事になった。
そして最後に残った呉であるが、海上交通の要衝である瀬戸内のど真ん中に位置するために、大規模な艦隊集結が逆に海上交通を阻害する弊害が出始めていた。そこで呉では近くの江田島海軍兵学校、もちろん現在は海上自衛隊江田島術科学校であるが、そこの伝統に従い海上自衛隊訓練施設の中心となり、艦船建造施設としては長崎・佐世保と共に大神の予備施設と言うべき立場に後退する事になるのである。
以上、この時に策定された「運用計画」が連合政府から正式に発表されたのは新世紀2年6月の事である。ほぼ1年間秘密裏に進められたのであった。
「これだけの施設が丸ごと時空融合で現れたのも驚きだが、工廠のあった元の世界では大騒ぎになっていることだろうな」
「いえ、厳密に言えば『丸ごと出現した』というわけではないのです」
「ふむ、それはどういうことかね?」
牧野技官に続いて工廠の感想を述べた藤本技官の言葉に言葉を返したのは三人を出迎えた工廠の案内を担当する男であった。
彼は藤本の疑問に対して言葉を続ける。
「あの時空融合から暫くは我々工廠の関係者もここが丸々時空融合に巻き込まれたものと思っていました。しかし調査をしたところ意外な事が分かったのです」
「事が判明した発端は工廠と共に出現した軍関係者や作業員の証言で彼等、私も含めてですが時空融合に巻き込まれた時の時間帯が異なっていたのです。 実際、職員の所持品に会った腕時計や工場棟毎に設置されている時計の時刻そしてカレンダーの日付も異なっていました」
「工廠が同じ世界から来たのは間違いなのですが場所ごとに時間帯が異なっていたのです。言うなればここ大神工廠はモザイク状に出現したという事です」
案内担当者の説明に納得がいったのか牧野と藤本は「なるほど」と頷いた。
その間にも彼らを乗せたリムジンは幅100メートルはある工廠中央の道路を走り続ける。
そのリムジンの走る反対車線を作業用レイバーや資材を満載した大型トレーラートラックが何台も通り過ぎていくのが見えた。
「そういえば、聞き忘れていたが工廠の出現した場所毎の時間にはどれぐらいの差があったのかね?」
「時間差については第三次大戦が開戦した1948年から1950年代前半というのが殆どでした。 私は1948年の年末から来ましたが自分より後の世界から来た人によると大戦は1952年まで続いたみたいです」
「私からも聞きたい事があるのだが」
藤本の質問に答える案内担当者に対して続けて質問したのは牧野であった。
「工廠のインフラ整備はどうなっているのかね? 時空融合から短期間で稼働再開したところからインフラは規格が同じようだが」
「融合直後は元世界の物をそのまま使い続けていましたが、現在のままでは今後基準になる90年代から21世紀初頭の規格に対応できないとのことでして、5月の連休明けから順次更新しているところです」
「なるほど、作業用レイバーが多数出入りしていることから電力関係は更新されていたみたいだったのでね」
「ええ、電力関係は真っ先に」
会話が一段落ついたところで牧野が視線を外に向けると車窓から左手に巨大な建造物が見えた。
数百メートルはあるだろうか?その巨大な建造物に牧野と藤本の視線は釘付けになる。
「あれが噂に聞く一号ドックかね?」
「確か公称では30万トンドックとの事だが随分と巨大だな」
「実際にはもっと大型の艦艇を建造する事が可能だそうです。 あの一号ドックは融合後の現在も許可証を持った者しか出入りできません。今では七号艦が入渠しているそうですが」
「「七号艦?」」
「書類が回ってきていた<播磨>の事だよ」
案内担当者が説明する前に口を開いたのはそれまで手元の書類に目を通していた平賀技官であった。
平賀は二人が質問している間も大神に来るまで佐世保と長崎で見てきた今後改装予定の艦艇に関する書類に目を通しておりずっと無言だったが、周囲の会話を無視していたわけではない様だ。
書類に目を通すのが終わったのだろうか、平賀は顔を上げて牧野、藤本の両技官同様に一号ドックに目を向けながら言葉を続ける。
「艦政本部に送られてきた第一次調査報告書によると<播磨>は20万トンオーバーの超弩級戦艦とあったな。 あの艦の近代化改装は当分先の事だろう」
「そうでしょうね。あれだけ巨大な戦艦でしたら改装前の調査や下準備が大変ですから」
「それだけではないよ。 現在戦艦の改装される優先順位が下げられている事も関係しているからね」
平賀が自分の教え子である牧野に言ったとおり、調査艦隊の旗艦として選ばれた戦艦の近代化改装を除けば現在連合政府が計画している護衛艦の近代化改装計画にあって戦艦という艦種の改装優先順位は下げられつつあった。
別に戦艦が不要になったわけではない(事実、打撃護衛艦として改装された<長門>は対ゼルエル戦、対イリス戦で戦艦という兵器が未だに有効である事を実証してみせた)。
現状において戦艦以上に優先するべき艦種があるというだけである。
この頃(新世紀元年9月)連合政府が最優先で近代化改装を進めるべきとした艦種は巡洋艦、駆逐艦といった中型小型の艦艇と補給艦、輸送艦、工作艦といった補助艦艇であった(大型艦艇の中でも航空母艦だけは例外的に優先順位が下げられなかったが、それでも改装終了の期日が繰り下げられる空母が出始めていた)。
これは連合政府が貿易国家として成り立つ為に不可欠なシーレーン防衛能力の強化、向上と将来を見越した敵性体との戦いを想定していたからである。
海上通商路の防衛に必要な艦艇は強力な火力を有する戦艦ではなく、数の揃った巡洋艦や駆逐艦である事は海上護衛の基本を知る者にとって当たり前の事だった。
一方、補助艦艇については中でも補給艦、輸送艦の数の少なさが将来的に敵性体の本拠地で戦う事となった上では致命的になるのは確実であり(それだけではなく国内における陸上兵力の移動にも輸送艦は必要不可欠だった)、連合政府は躍起になってこの艦種の新規建造や旧式艦の近代化、他艦種からの変更等を艦政本部へ指示していた。
結果的にこの時の「とばっちり」を食らった戦艦や空母は改装まで暫くの猶予期間を得る事になるのだが、この間改装もされず単に放置されていたわけではなくこの空白期間の間別の任務に就く事になるのだがそれはまた別の話である。
(我々が政府の方針にどうこう言う必要は無い。 今はやれるだけの事をやるだけだ)
自分達に対して与えられた現在の職務とその経緯を思い出しながら、平賀は心の中でそう呟いた。
一方、二人が会話をしている間も一号ドックの外を見やっていた藤本は一号ドックの周囲にいる兵士達の姿に気がついた。
自動小銃を手にしている兵士達の軍服は以前見たことのある陸自のソレと同じみたいだが、よく見るとあちらこちらが微妙に違って見えた。
「海自の海兵師団です」
「海兵師団?海軍陸戦隊みたいなものかね?」
「ええ、何でも陸上基地防衛の為に新設されたそうです」
藤本の視線が何処に向いているかに気づいた案内担当者は、ここの防衛を担当しているのは築城に出現した特務陸戦隊、ああ我等と同じ世界の出身ですと言った後説明をはじめた。
時空融合後の調査で幾つかの世界の日本はアメリカのマリーン(海兵隊)に匹敵する海軍陸戦隊やそのまんまの名称である「海兵隊」を有していた事が判明した。
当初連合政府は「攻撃型の組織である海兵隊は不要」と考えて、彼らを再訓練の上で陸自に編入する事を検討したが海自の基地や港湾施設が攻撃された際に基地防衛を専門に担当する部隊が必要であるという事が指摘された為に再検討の上で「海兵師団」が新設されたのである。
現在では大神だけでなく横須賀、呉、舞鶴、佐世保、大湊、沖縄等の海自基地に分散配備されておりこれら全てを合わせると一個師団強の兵力になるとの事だった。
海兵師団についての説明のあと担当者の彼は、特務陸戦隊が元の世界では海軍陸戦隊の中でも最精鋭であり融合直後には築城から工廠警備の為に回転翼機で駆けつけた事を付け加えた。
「長崎と佐世保もでそうしたけどここもまた随分とにぎやかですね」
「九州の復興は早かったそうだからな」
「時空融合直後の熊本に存在したという『壁』が融合から三日後に消滅したおかげです。 熊本の『壁』が早期に消滅しなければ九州は南北で分断されていました」
「熊本は九州における交通のアキレス腱だからな」
案内担当者の説明に藤本が相槌を打っていた時、平賀と牧野は工廠内を忙しく動き回る作業員やレイバーの姿を見て九州の復興の早さに感心していた。
その二人に案内担当者が言葉を返す。
九州は古来より阿蘇山によって南北を繋ぐルートが限定されており、特に熊本平野は縦の大動脈であるJR鹿児島本線・九州新幹線・国道3号線・九州自動車道の全てが通過している場所であり、熊本城は熊本平野を押さえる事でこの縦の動脈を押さえ、薩摩藩の北上を阻止する目的で整備された歴史的経緯があった。
熊本県はまさに「交通のアキレス腱」だったのである。
だが、彼の言ったように時空融合直後の熊本県には雲で覆われたような「壁」(後にアフリカ大陸に出現する「ゾイド連邦(この頃はアンノウンフィールドと呼称)」を覆っていた物と同じ物である)があり、あらゆるモノを拒絶していた。
このため時空融合の直後には九州南部との連絡は空路あるいは海路を用いるしかないと連合政府内部でも考えられていた。
しかし、時空融合から三日が経過した時、その「壁」は消滅し自由な行き来が可能になったのである。
これによって、九州では南北の往来が自由(鉄路の一部消滅など多少の不自由はあったが)になったのである。
後に「壁」の中に閉じ込められていたという人々の証言で明らかになったことだが「壁」の存在した三日間、その向こう側では5121部隊、陸上自衛隊第8師団、帝国陸軍の熊本師団(第6師団)が一致協力し、5121部隊と同じ世界から来たという「幻獣」という怪生物を激戦の末に殲滅したとの事だった。
もし仮に「壁」が早期に消滅していても幻獣が殲滅されていなければ九州は今もまだ南北に分断され大神のある大分県も陸の孤島になっていた可能性が高い。
その意味では孤立無援の中で幻獣相手に戦った5121部隊を始めとする人々は九州復興の立役者と言っても過言ではない。
さて、熊本の「壁」消滅後に九州はどのようにして復興したかだが、「壁」の消滅後九州の復興は急速に進んだ。
その復興速度は政治・経済の中枢である東京や関東地方には劣るもののかなりのスピードで進んだといえる。
そして九州復興の原動力こそが佐世保、長崎、大神等の造船施設であり北九州工業地帯の工場群だったのである。
連合政府が中華共同体に外交団を送り貿易協定を結んでからは、これらの国々から多くの貿易船が九州各地の港を訪れるようになっている。
話を大神工廠に戻そう。
平賀達三人を乗せたリムジンは一号ドックを通り過ぎると工廠の中央道路を外れて目的の艦艇が停泊しているという艤装岸壁へ続く横道(それでも幅50メートルはある巨大なものだったが)へ入った。
運転手と案内係によると目的地へはまだ時間がかかるという事であり、三人は車内に置かれていた新聞や雑誌に目を通していた。
その中で牧野技官が手にとったのは雑誌ではなく経済関係に力を入れている新聞であったが、記事を見ていた彼は幾つかの記事に目が留まった。
その記事は「『新世紀徳政令』の効果か。失業率猛スピードで降下中」「危機管理の手本ともいえる日銀元神戸支店長の手腕」といった時空融合直後の金融不安がどの様にして解消したかを特集した記事の片隅にあった「新世紀徳政令を逆手に取った捏造新聞記者が任意出頭で事情聴取」というものであった。
それによると、ある地方都市の新聞が「新世紀徳政令により銀行の負債と言うべき預金が消滅した人が多数自殺」という記事を掲載しちょっとした騒ぎになったというものであった。
彼がその記事を読み進めると、この記事の内容は程なく連合政府の知る所となり早速調査が行われたがそのような事実は無く、事の真相はその記事を書いた記者が自分の住む地方都市には仕事があると宣伝し各地から労働力を集める為に仕組んだ捏造記事であり、当の新聞記者は任意出頭で事情聴取を受けるハメになったという事の顛末が記されていた。
(バカな事をする奴がいたものだ)
牧野は半ばあきれ返りながらその記事の上にある時空融合直後の金融不安対策解消の経緯とその詳細について書かれた記事に目を向けた。
時空融合直後、金融不安が存在していたのは事実であったがそれらの不安要素は対策を講じた連合政府の関係者も驚くほど早く解消した。
当然、三大財閥を始めとする多くの財閥や自衛隊などの公共機関が無償で物資の提供、配給を行った事や「だるま宰相」こと高橋是清大蔵大臣(のちに経済財政担当主席補佐官)の打ち出した「新世紀徳政令(預金以外の証券・保険・債務を帳消しにするというもの)」の効果もあったが、融合直後の混乱を最小限に抑えられたのは日銀主導の下で行われた「非常事態時の金融特別措置」のおかげであった。
そして、驚くべき事に融合直後の日銀でこの指揮を執った人物は日銀総裁といったトップではなく「調査役」という一般企業なら重役クラスの人物だったのである(遠藤という名前だった)。
時空融合発生の直後に大蔵省や経済企画庁は最初の段階で混乱があったものの高橋蔵相や秋山長官の様な有為の人材がトップに立って指揮を執った事で一躍有名になったが、日銀の方は省庁と同じとはいかなかった。
融合発生当時の日銀には総裁、副総裁といったリーダーシップを取るべき人物が出現せず職員達はただ右往左往するばかりだったという。
そんな中駆けつけた遠藤氏は所在のつかめた職員の中では最も高い地位にあった為自然と日銀全体の指揮を執ることになったのである。
職員の身元、所在の確認や造幣局の無事を知り日銀の現状を把握した遠藤氏はすぐさま首相官邸に駆けつけ加治首相、高橋大蔵大臣、秋山経済企画庁長官との面会を果たし、その後すぐに今後の国民生活を安定させる為の金融対策を行うこととしたのである。
日銀にとって幸運だったのは指揮をとったのがこの遠藤氏だったことであろう。彼は時空融合前、日銀本店で調査役になる前は日銀神戸支店の支店長であり、多くの世界でも発生した阪神淡路大震災を経験した人物でもあった。
そして大事なのは、震災直後に遠藤氏が「危機管理の手本」といわれるほどに見事な金融特別措置によって貨幣不足による経済的混乱と金融機関の取り付け騒ぎを未然に防いだという実績の持ち主だった事だ。
遠藤氏はその昔、関東大震災時に日銀が「通帳と登録印鑑を持参した者にだけ預金の引き下ろしを許可する、但し上限は20円まで」という指示を出した為に関東各地の銀行で取り付け騒ぎや暴動が起こった事を知っており、これらとは逆の非常処置を行ったのである。
震災当時行われた金融特別措置の具体的内容は以下のようなものであった。
1:預金証書・通帳を紛(焼)失した場合でも預金者であることを確認して払い戻しに応じること
2:届け出の印鑑のない場合は拇印にて応ずること
3:事情によっては定期預金・定期積金の期限前払い戻しに応ずること。また、これを担保とする貸付にも応ずること
4:今回に地震による障害のため支払期日が経過した手形について関係金融機関と適宜話し合いのうえ、取り立てが出来るようにすること
5:よごれた紙幣の引換に応ずること
6:国債を紛失した場合の相談に応ずること
7:1〜6にかかる措置について実施店舗にて店頭掲示を行うこと
8:本取扱いは平成7年1月17日から平成7年1月20日までとすること
この金融特別措置の他にも遠藤氏はマスコミ各社に「日銀は通常道理業務を行っている」と知らせて報道させることによって、金が引き下ろせないというデマを防止したり、神戸にあった大手銀行、都市銀行第二銀行、信用金庫、農林中央金庫を一カ所に纏めることによって、警察による現金の警備を容易にするなど、各種危機管理に秀でた行動をとって事前に二次被害の防止に成功したのである。
そして震災で通帳、紙幣等を紛失、破損、汚損した多くの被災者がこれらの金融措置により「財産を失ったわけではない」という生きる希望を与えられたのだ。
さて、時空融合は阪神大震災を上回る規模の混乱が起こるのは確実であった為、首相官邸から日銀に戻った遠藤氏は震災時の金融措置に加えて通帳は有っても金融機関が出現しなかった人やその逆という人、失業者に対しても当面(目安として三ヶ月間)の生活を保障する事を目的とした小口現金の緊急融資や、郵便貯金から一時的に口座変更を行った上で一定期間中の引き下ろしを可能にする等幾つかの追加事項を加えて全国の銀行、金融機関に指示を出したのである。
更に高橋大臣、秋山長官に連絡し「新世紀徳政令」の発効前に各金融機関が持つ顧客の預金は徳政令の適用外にし、全額保護する事を連絡したのである。これは銀行の側から見れば顧客の預金は「負債」であり徳政令が杓子定規に用いられたら最悪の場合は預金消滅による暴動の発生が考えられたからだ。
コレに加えて加治首相の記者会見に集まったマスコミ関係者を前に遠藤氏が「日銀は通常通り業務を行う。他の金融機関についても日銀の名に懸けて取り付け騒ぎは絶対に起こさせない」と明言し、電話窓口による応対や電話の繋がらなかった地域には日銀の職員が金融機関へ足を運んで銀行に詰め掛けた顧客への事情説明を行うことで混乱を収拾するなどの対応策をとった。
また、これらの金融特別措置に関する説明を政府からの時空融合に関する説明やGGGからの定時放送と共に繰り返し行った事による効果も大きかった。
その一方で融合前には口座を持っていなかったにも関わらず「口座を持っている」と言い張り金を巻き上げようとする人間が出てくることが不安視されたが、日銀側はこれらの事も折込積みだったらしくこの様な「客」に対しては身分証を提示して貰って、上限(何十万円位)の枠で貸し出す方針で対処した(実際にはこの手の人間は殆どいなかったが)。
これらの措置が短期間に行われた結果、一歩違えば日本中を大混乱に陥れたであろう金融危機は短期間で収束したのである。
再びここで話を大神工廠に戻す。
牧野が新聞を読み終えた丁度同じ頃、リムジンは横道を抜けて艤装岸壁を走っていた。
そこはまさに「艦艇銀座」と呼んでも差し支えの無いほど無数の艦艇がひしめいていた。 それも艤装途中の艦艇だけではなく、順番待ちの艦艇も岸壁から程近いところに錨を下ろし停泊している。
未だ改装されずにドック入りを待つ艦艇は艤装岸壁への接舷を待つ艦艇より更に離れた場所に停泊しドック入りまでの順番を待っていた。
「壮観だな……」
「そのうちもっと数が増えます。なんでも呉で改装を待っている艦艇の中からかなりの数がこちらに来るそうですから」
「こちらに到着してからすぐ一号ドックの桁違いのサイズに圧倒されたが停泊地も呉とは桁違いみたいだな」
彼らが上の様な会話をしている間もリムジンは艤装岸壁を走り続ける。
接舷している艦艇を見るとその殆どが巡洋艦、駆逐艦といった小型艦艇であったが、これは艤装岸壁の位置が小型艦艇用のドックが置かれている牧内地区に近いためであった。
一方空母、戦艦といった大型艦艇はここの艤装岸壁から離れた場所或いは大型艦艇用ドックのある真那井地区に近い場所に停泊していた。
暫くしてリムジンは艤装岸壁の一角に停泊していたモーターボートの前で停車した。
「ここからはボートに乗って下さい。引き続きご案内します」
「艤装岸壁に接舷しているのではなかったのかね?」
「申し訳ありません。こちらの確認ミスで接舷は明日に繰り下げられたようで……」
怪訝な表情の平賀に対して案内担当者は気まずい表情を浮かべつつ歯切れの悪い返事をしていた。
しかし、平賀達三人はその説明で納得がいったのかそれ以上は何も言わずボートに乗り込んで行った。
岸壁を離れたボートは接舷中の艦艇の間をすり抜けるとそのまま目的の艦艇が停泊している海域に進み始めた。
やがて小型艦艇がすし詰めになった岸壁近くの海域を抜けると改装・入渠待ちの艦艇がまばらに停泊している海域が見えてくる。停泊している艦艇も小型艦だけでなく大型・中型艦艇が混じっているのが見えた。
「あの艦です」
案内担当者の声に三人が彼の指差す方向を見るとようやく目的の艦が姿を見せた。
既に主砲塔は撤去されているものの背の高いパゴタマストがその艦が戦艦であることをハッキリと示していた。
その戦艦の名は「長門」であった。
中編に続く。
2004年 9月24日 UP
2005年 5月26日 一部訂正
後書き
どうも、山河晴天です。 今回は前の投稿から実に一年以上間隔を空けての投稿となりました。
今回はサブタイトルにある「本土にて」の文字通り第二次南太平洋調査艦隊が出航した頃の日本連合本土で何があったのかという事を題材にした話の前編です。
元々この作品の大もとは一年以上前に完成していたのですが、その後他の投稿作家の方との意見交換とそれに伴う加筆修正を重ねた結果現在の形になりました。
協力してくださったみなさんには監修も手伝っていただきただただ感謝するばかりです。
本当に有難うございました。
今回の執筆に際しては以下の方に監修・協力していただきました。
Okada Yukidarumaさん…大神工廠についての考証と文章の構成について。
コバヤシさん…誤字脱字の指摘と今回は未登場ですが「中編」へ登場予定のアイデア提供。
ペテン師さん…欧州系自衛官(特にドイツ陸軍・武装SSについて)の部分と時空融合直後の金融対策に関して助言を。
錬金術師さん…熊本県の歴史的経緯と交通事情、ゾイド連邦に関しての助言・情報提供を。
ちなみにペテン師さんの協力をいただいて執筆しました金融危機の部分ですが、時空融合直後の金融危機対策で登場し陣頭指揮を執った「遠藤氏」は阪神淡路大震災当時、実際に日銀神戸支店長をなさっていた遠藤勝裕氏がモデルです。
この方が震災当時実施した金融特別措置について詳しいことを知りたい方は遠藤氏ご自身が書かれた「阪神大震災 −日銀神戸支店長の行動日記−」を読まれることをオススメします。
また「熊本の幻獣が殲滅された」というくだりにつきましては、以前アイングラッドさんが掲示板に書かれていた内容を参考とさせていただきました。 この場を借りてお礼を言わさせてもらいます。
有難うございました。
そして、最後に一言。作中に出てきた金融危機対策の部分は以前からこの点について疑問を持ってらたれた方への回答としての意味を持たせてあります。
これによって疑問を持たれていた方が納得してもらえればと思っています。
それでは。